本日本刀は、刀剣愛好家として知られる「明治天皇」から、有栖川宮家(ありすがわのみやけ)に下賜された名刀です。
有栖川宮家は、江戸時代初期から大正時代にかけて存続した「世襲四親王家」のひとつ。「世襲四親王家」とは、江戸時代における皇統(こうとう:天皇の血統)を存続するための制度のこと。「伏見宮」(ふしみのみや)、「桂宮」(かつらのみや)、「閑院宮」(かんいんのみや)、「有栖川宮」の4家を指し、天皇の直系の男子が不在となった際に皇位を継承する資格を持つ皇族です。
有栖川宮家で著名なのは、2代「良仁親王」(ながひとしんのう)と、9代「熾仁親王」(たるひとしんのう)。「良仁親王」は、皇統を継いで第111代天皇「後西天皇」(ごさいてんのう)として即位しました。
「熾仁親王」は、幕末期に「皇女和宮」と婚約していたことで知られています。しかし、徳川幕府の権力失墜により、公武合体を余儀なくされたため、皇女和宮との婚約は解消。皇女和宮はその後降嫁して、第14代将軍「徳川家茂」と結婚しました。
熾仁親王は、明治維新後に第15代将軍「徳川慶喜」の妹「徳川貞子」を妃に迎え入れます。「王政復古」の折には総裁を務め、また戊辰戦争では東征大総督を担い、明治時代に入ると陸軍軍人として明治天皇を支えて参謀総長を務めるなど、軍務・政務の最高官職として活躍しました。
本太刀を作刀したのは、平安時代末期から鎌倉時代初期に豊後国(現在の大分県)で活躍した刀工「行平」(ゆきひら)。「後鳥羽上皇」の御番鍛冶としても有名です。
姿は、時代を反映した細身、腰反りは高く先伏しごころで小鋒/切先(こきっさき)。鍛は、板目に柾(まさ)ごころの肌交じり、地沸(じにえ)付いてねっとりとした肌になり、刃文は直刃に小互の目(こぐのめ)交じり、匂口(においくち)うるみごころに小沸(こにえ)付き、大きく焼き落とされた区上などから、古い九州物の特徴がよく現れています。
腰元の櫃の中には、「松喰鶴」(まつくいづる:松の小枝を嘴[くちばし]にくわえた鶴の模様)の浮彫が施されていますが、腰元に彫を施すのが行平の特徴です。