「太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之」を所持していたのは、本多忠刻(ほんだただとき)。徳川四天王のひとりである「本多平八郎忠勝」(ほんだへいはちろうただかつ)の孫で、別名、本多平八郎忠為(ほんだへいはちろうただため)。
本多忠為は大坂城落城後、徳川家康(とくがわいえやす)の孫である千姫(せんひめ)と結婚します。千姫は豊臣秀頼(とよとみひでより)の正室でしたが、夫と死別したため、本多忠為と再婚しました。しかし、1626年(寛永3年)、本多忠為は結核により31歳の若さで亡くなってしまいます。妻の千姫は本太刀を形見として、父親の2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)のもとに持ち帰り、将軍家に伝わる太刀となりました。
そのあと、1685年(貞享2年)、5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が信州上田藩主・松平忠周(まつだいらただちか)に下賜し、以来信州上田藩(現在の長野県上田市周辺を支配した藩)の松平家に家宝として伝わるなど、歴史上の人物に受け継がれた太刀です。
作者の「包永」(かねなが)は、鎌倉時代中期から栄えた大和五派(やまとごは)のひとつ、手掻派(てがいは)の祖。手掻派の由来は、奈良東大寺の境内西にある輾磑門(てがいもん)の前に居を構え、日本刀を作刀したことに起因します。
本太刀の身幅(みはば)は尋常で腰反り(こしぞり)、鎬(しのぎ)が高く、鎬幅(しのぎはば)も広いのは、大和伝の特徴です。地鉄(じがね)は地沸(じにえ)が強く、板目肌(いためはだ)に柾目(まさめ)が流れ、沸出来(にえでき)の直刃(すぐは)に小互の目(こぐのめ)が混じります。刃ぶちに二重刃(にじゅうば)、掃掛け(はきかけ)、打除け(うちのけ)等の働きが有ります。総じて地刃が冴えています。帽子の焼きは掃掛け。