山城国では、平安時代末期から鎌倉時代初期における、「三条派」、あるいは「五条派」等の「古京物」(こきょうもの)と称される一派の存在が知られています。しかし、鎌倉時代初期から中期にかけて「粟田口派」が台頭して繁栄し、鎌倉時代中後期より南北朝時代には、「来派」がその隆盛を極めました。
「粟田口派」には、鎌倉時代初期の国友(くにとも)を長兄とする久国(ひさくに)・国安(くにやす)・国清(くにきよ)・有国(ありくに)・国綱(くにつな)の世に名高い6人兄弟がいます。それぞれが秀逸な技量を示しており、彼らのあとにも、則国(のりくに)・国吉(くによし)・国光(くにみつ)・吉光(よしみつ)などの名工が輩出されました。
同派の作風は、古来「鉄色青く刃白し」と評されるなど、上作物として長く珍重されています。
本刀の作風は、一般的に姿は優しく、京反り(きょうぞり)となる太刀姿で小鋒/小切先(こきっさき)。地鉄(じがね)は小杢目鍛え(こもくめきたえ)が良く詰み、焼き入れの際に発生する沸(にえ)が地肌(じはだ)に密着し、たたきしめたような梨子地肌(なしじはだ)とよばれる地鉄となります。
刃文(はもん)は、小沸本位の焼き幅の狭い直刃(すぐは)に小互の目(こぐのめ)、小乱れ(こみだれ)、小丁子乱(こちょうじみだれ)の刃文が交じります。