「刀 無銘 伝正宗」は、明治天皇の父・孝明天皇(こうめいてんのう)の佩刀(はいとう)です。孝明天皇は激動の幕末維新期、アメリカやヨーロッパ諸国が開国と通商を要求するなか、開国路線を採る徳川幕府に対し、一貫して攘夷(じょうい)を唱えました。倒幕ではなく公武合体政策を模索しながらも、35歳という若さで病没するまで国民を守るために生涯を尽くします。
本刀を作刀した「正宗」(まさむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した刀工です。五郎入道正宗、岡崎正宗とも称されています。
通説では、1264年(弘長4年/文永元年)に鎌倉の刀工・藤三郎行光(とうさぶろうゆきみつ)の子として鎌倉の今小路で生まれ、1280年(弘安3年)に新藤五国光(しんとうごくにみつ)の門下で作刀を学びました。そのあと、山城国(現在の京都府)、備前国(現在の岡山県東部)、伯耆国(現在の鳥取県)などを行脚して各地の技術を研究し、相州伝を完成させたのです。
本刀は、中鋒/中切先(ちゅうきっさき)の堂々たる姿。地鉄(じがね)は、板目肌(いためはだ)がよく詰んでおり、青黒く、深みをたたえた地沸(じにえ)が一面に付き、地景(ちけい)頻り(しきり)に入り、地斑(じふ)も入っています。
刃文(はもん)は、沸(にえ)よく付き、小湾れ(このたれ)に互の目(ぐのめ)、丁子(ちょうじ)交じり。足(あし)が盛んに入り、金筋(きんすじ)や稲妻(いなずま)などの働きが見られるのが特徴です。帽子は、湾れ込んで先が小丸に返ります。
表裏に棒樋(ぼうひ)の搔流し(かきながし)があり、茎(なかご)は大磨上げ(おおすりあげ)、栗尻(くりじり)、鑢目(やすりめ)は勝手下り、目釘穴(めくぎあな)2つ。輝く冴えた沸(にえ)が相州伝の極意を表現した屈指の名刀です。