「山姥切長義」(やまんばぎりちょうぎ)は、備前国(現在の岡山県東南部)の「長船派」(おさふねは)に属した刀工「長船長義」(おさふねながよし/ちょうぎ)の手にによる、打刀(うちがたな)の異名です。長船長義は、「長船兼光」(おさふねかねみつ)と同じく、名工「正宗」(まさむね)の作風を引き継ぐ10名の刀工「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとり。
山姥切長義は、切られた銘文(めいぶん)から「本作長義」(ほんさくちょうぎ)とも呼ばれています。山姥切の名は、信州(現在の長野県)の戸隠(とがくし)山中において山姥と呼ばれる怪物退治に用いられたことが由来。身幅(みはば)が広く、豪壮な出来となっています。
山姥切長義で特徴的なのは、その磨上げ銘(すりあげめい)です。そこには、北条氏の家臣で「足利城」(あしかがじょう:栃木県足利市)の城主「長尾顕長」(ながおあきなが)が、北条氏5代当主「北条氏直」(ほうじょううじなお)から拝領した物であることが記されています。「豊臣秀吉」による、「小田原の役」(おだわらのえき)で北条家の敗色が濃くなった1590年(天正18年)5月3日、長尾顕長が名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に命じて、刃長(はちょう)が約90.9㎝ある刀身(とうしん)の磨上とともに切らせた、決意の銘文でした。
堀川国広は、山姥切長義の磨上げとは別に写し(うつし)も作刀しており、その写しは「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)と呼ばれます。なお、小田原の役は北条氏の無条件降伏で終結し、長尾顕長による、豊臣軍への覚悟の死闘が行われる機会はありませんでした。そののち、山姥切長義は尾張藩(現在の愛知県名古屋市)3代藩主「徳川綱誠」(とくがわつななり)が1681年(延宝9年/天和元年)に買い上げて以降、尾張徳川家へ伝来。現在は、尾張徳川家の美術品を展示・保存する「徳川美術館」(愛知県名古屋市)が所蔵しています。