「斎村貞宗」は、播磨国(現在の兵庫県)赤松家の家臣「斎村政秀」(さいむらまさひで)が所持していた「相州貞宗」(そうしゅうさだむね)の脇差です。刃文は、浅い湾れ調の直刃に乱れが交じり、中心は生ぶ茎、差表に貞宗、裏には本阿弥光徳による花押が朱銘で入っています。
斎村政秀の子「斎村政広」(さいむらまさひろ)は「関ヶ原の戦い」で、当初は西軍「石田三成」側に付いていましたが、西軍本陣が破れた知らせを受けるとすぐさま東軍に降伏。
「徳川家康」の要請を受け、斎村政広は西軍の陣地である因幡国「鳥取城」(現在の鳥取県鳥取市)を攻撃しました。しかしこのとき、城だけではなく、城下を焼き討ちにし民家にまで火を放った咎により、徳川家康から切腹を命じられます。その際、斎村貞宗も没収されました。
徳川家康が亡くなると「駿河御分物」(すんぷおわけもの:徳川家康の形見分け品)として、1615年(元和元年)に尾張徳川家に分与。その後、2代将軍「徳川秀忠」に献上されましたが、「寛永寺」(東京都台東区)境内に「寒松院」を建立した褒美にと、徳川秀忠が「藤堂高虎」(とうどうたかとら)へ下賜。その藤堂高虎の病死によって、再び3代将軍「徳川家光」へ献上されました。
1635年(寛永12年)に斎村貞宗は、加賀藩2代藩主「前田利常」(まえだとしつね)の娘で徳川家光の姪「満姫」(まんひめ)の結婚祝として、相手の広島藩藩主「浅野光晟」(あさのみつあきら)に贈られました。現在は、個人蔵となっています。