鎌倉時代に山城国(やましろのくに:現在の京都府)で活動した刀工・粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)作の短刀で、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)所載の名物です。
粟田口吉光は、正宗(まさむね)、江義弘/郷義弘(ごうよしひろ)と共に、天下の3名工を意味する「天下三作」と呼ばれ、通称「藤四郎」を名乗りました。特に短刀を得意とし、本短刀の他にも後藤藤四郎、平野藤四郎など、短刀の名作を数多く作っています。
その多くは、真っ直ぐな刃文の直刃ですが、本短刀の刃文はめずらしく互の目乱れであり、これが名称「乱藤四郎」の由来です。細身の三つ棟で、ごくわずかに反り、地金は板目に流れ肌交じり、地景が入り、地沸が付いています。刃文は、匂口深く、沸よくつき、小乱れに足よく入り、見どころの多い短刀です。
本短刀は、はじめ室町幕府の管領(かんれい)を務めた細川家が所有し、同家から足利将軍家に献上されました。その後、1569年(永禄12年)に、室町幕府15代将軍・足利義昭が本圀寺(京都府京都市山科区)で三好一族に襲われた際に、駆け付けて窮地を救った朽木元綱(くつきもとつな)に、恩賞として与えられています。のちに豊臣秀吉の手に渡り、さらに福山藩(現在の広島県東部)の藩主・阿部家に伝わったとされますが、その経緯は明らかでなく、昭和時代に阿部家を離れて現在は個人所有です。