「蜂須賀虎徹」(はちすかこてつ)は、江戸時代中期の刀工「長曽祢虎徹興里」(ながそねこてつおきさと)の作刀による打刀(うちがたな)で、徳島藩(現在の徳島県、兵庫県淡路島・沼島)を治めた蜂須賀家へ伝来していました。
茎(なかご)には、「長曽根興里入道乕徹」(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)の銘(めい)が見られます。また、虎徹の「虎」の文字が箱の形に見える「ハコ虎」(はことら)となっていることから、1664年(寛文4年)以降に作刀されたとの説が有力。1665年(寛文5年)に行われた試し切りで、二ツ胴(胴体を2体)を斬り落としたことを示す、截断銘(さいだんめい)も金象嵌(きんぞうがん:溝を掘り金で埋め込む技法)で入っています。
当時の徳島藩は、3代藩主「蜂須賀光隆」(はちすかみつたか)の晩年期。そのため、蜂須賀光隆本人もしくは、嫡男の4代藩主「蜂須賀綱通」(はちすかつなみち)の代に購入された日本刀であると考えられています。
なお、蜂須賀家は、「豊臣秀吉」に当初より右腕として仕えた、戦国武将「蜂須賀小六/正勝」(はちすかころく/まさかつ)を家祖とする一族。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)において、豊臣家に恩のある大名としての立場に苦悩しながら、「徳川家康」に付いて功を成しました。子孫は、幕末に明治新政府側で「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)へ参戦。この蜂須賀虎徹は長く蜂須賀家に伝来し、1935年(昭和10年)頃に手放された物とされているのです。
本刀は、庵棟(いおりむね)で表裏に丸止めの棒樋(ぼうひ)が掻かれ、地鉄(じがね)は板目肌(いためはだ)が流れ柾(まさ)がかっています。湾れ(のたれ)風の刃文(はもん)に互の目(ぐのめ)が交じり、足(あし)が入り砂流し(すながし)気味になるなど、美しい刃中の働きも盛んです。茎は生ぶ(うぶ)で磨上げ(すりあげ)はなく、鑢目(やすりめ)は勝手下り(かってくだり)になっています。