「大慶直胤」(たいけいなおたね)は本名を「荘司/庄司箕兵衛」(しょうじみのべえ)と言い、出羽国山形鍛冶町(現在の山形県山形市宮町)の鎌鍛冶の家にて、1778年(安永7年)、または1779年(安永8年)に誕生。月日については7月15日だと推測されており、これはこの日が「大慶の月」と呼ばれ、号(ごう)の「大慶」の由来になっているからだと考えられています。
1798年(寛政10年)頃に江戸へ出た大慶直胤は、同郷の先達「水心子正秀」(すいしんしまさひで)に師事。大慶直胤が持つ技量の高さは、師・水心子正秀をはるかに凌ぐと評され、1801年(寛政13年/享和元年)に23歳前後の若さで、単独での作品を出しているのです。
1812年(文化9年)頃には、郷里・山形藩(現在の山形県山形市)藩主「秋元家」(あきもとけ)に、水心子正秀と共に仕官。1821年(文政4年)頃に「筑前大掾」(ちくぜんのだいじょう)、1848年(嘉永元年)に「美濃介」(みののすけ)を受領するなど、世間に名が広く知られるようになった大慶直胤は、全国各地から招かれて駐槌(ちゅうつい:滞在してし作刀すること)したのです。その際の地名を作刀の茎(なかご)に刻印で遺しており、巡った鍛刀地の数は判明しているだけでも16ヵ所に上っています。
大慶直胤の作風は、師・水心子正秀が唱えた「刀剣復古論」をよく実践しており、「五箇伝」(ごかでん:五ヵ伝、五ヶ伝)のすべてに精通。なかでも大慶直胤は、小丁子乱れ(こちょうじみだれ)に逆がかった物が多い「備前伝」(びぜんでん)と、大互の目乱れ(おおぐのめみだれ)に沸(にえ)が豊かに付き、砂流し(すながし)がかかる「相州伝」(そうしゅうでん)を最も得意としており、新々刀(しんしんとう)随一の器用人と評されているのです。
現代にまで伝わる大慶直胤の作刀のうち、「刀 銘 出羽国大慶庄司直胤/文化十二乙亥年仲秋応杉原軍記正包望造之」や、「刀 銘 七十翁藤直胤(花押)弘化二申ノ二月 日依/太政殿下台命所造之御太刀副作也」が、重要美術品に指定されています。