「肥前忠広」(ひぜんただひろ)は、武家出身の刀工「肥前忠吉」(ひぜんただよし)のことを指します。
肥前国(現在の佐賀県、壱岐・対馬を除く長崎県)出身で、本名は「橋本新左衛門」(はしもとしんざえもん)。肥前国の戦国大名「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)の家臣だった父を13歳のときに失ったのち、肥後国伊倉(いくら:現在の熊本県玉名市)の刀工「同田貫善兵衛」(どうだぬきぜんべえ)に入門しました。
そののち、肥前忠吉の作刀を高く評価した、佐賀藩(現在の佐賀県佐賀市)の初代藩主「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)のお抱え刀工となります。1596年(文禄5年/慶長元年)には、鍋島勝茂の命で「慶長新刀」(けいちょうしんとう)の祖とされる「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)に弟子入り。3年で作刀の秘伝を伝授されると「佐賀城」(さがじょう:佐賀県佐賀市)の城下町へ移り住み、再度鍋島家の刀工となったのです。1624年(元和10年/寛永元年)には武蔵大掾(むさしだいじょう)を受領。名を忠広(忠廣)と改めました。
肥前忠広の作刀技術は、江戸時代の刀剣評価書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)、「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において最上位の最上大業物(さいじょうおおわざもの)に選ばれています。刃文(はもん)は直刃(すぐは)調で、小糠肌(こぬかはだ)と呼ばれる緻密に詰んだ地鉄(じがね)の模様が特徴的。なお、肥前忠広作刀の一部には、茎(なかご)に師匠の手による彫刻や銘(めい)が見られますが、それは肥前忠広の師匠が称賛を込めて添えた物なのです。
肥前忠広の代表作としては、特別重要刀剣の打刀(うちがたな)「刀 銘 肥前国忠吉[倶利伽羅]」(かたなめい ひぜんのくにただよし[くりから])、重要刀剣の打刀「刀 銘 肥前国忠吉」(かたな めい ひぜんのくにただよし)などが知られています。