刀工「源清麿」(みなもときよまろ)は、1813年(文化10年)に信州(現在の長野県)に生まれ、本名は「山浦内蔵助環」(やまうらくらのすけたまき)とされます。17歳で「備前伝」(びぜんでん)を修得し、23歳で武士を志して江戸の「講武所」(こうぶしょ:江戸幕府が設置した武芸訓練所)に入門しますが、頭取「窪田清音」(くぼたすがね)に刀工としての才能を見抜かれ、講武所屋敷内の鍛冶場で作刀に没頭することとなりました。
ところが、師の窪田清音が源清麿の作刀修行のために行った「武器講」(ぶきこう:複数人より資金を募って作刀する職務)を途中で放棄し、長州藩(現在の山口県萩市)の招きに応じて出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方をくらますこと)。そののち、1845年(弘化2年)に師・窪田清音に武器講の無礼を詫びて江戸へ戻り、窪田清音の「清」の一字を貰い受けて、源清麿を名乗りました。
名工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の「刀剣復古論」に賛同し、「相州伝」(そうしゅうでん)と備前伝を融合した、独自の作刀に取り組みます。水心子正秀、「大慶直胤」(たいけいなおたね)と並び、「江戸三作」に数えられる幕末の人気刀工となりました。作刀の質は非常に高く、居を構えていたのが四谷(よつや:現在の東京都新宿区四谷)だったため「四谷正宗」(よつやまさむね)と呼ばれるほど。しかし、芸者との駆け落ち、「尊王攘夷運動」(そんのうじょういうんどう:天皇を尊び外敵を排する運動)への参加など、生活が乱れていきます。そして、1854年(嘉永7年/安政元年)に42歳で自ら命を絶ちました。
新々刀(しんしんとう)最上作とされるその作風は、沸本位(にえほんい)の大互の目乱れ(おおめぐのみだれ)を焼き、地鉄(じがね)は柾目肌(まさめはだ)となっているのが特徴です。折れにくい日本刀を作る、「四方詰め」(しほうづめ)と呼ばれる最も難しい鍛え方を用い、源清麿自ら保証するほど斬れ味には定評がありました。作刀例には、謝罪とともに師・窪田清音に捧げた「大太刀 為窪田清音君 山浦環源清麿 弘化丙午年八月日」が重要美術品に認定されています。