「八丁念仏」(はっちょうねんぶつ)は、逸話に由来を持つ太刀(たち)です。月夜に念仏を唱えながら歩く僧侶を、待ち構えていた男が太刀で袈裟斬り(けさぎり)にしたものの、僧侶は何事もなかったかのように念仏を唱えつつそのまま歩いていきました。不審に思った男があとを追いかけると、8丁(約872m)先まで行ったところで念仏が止み、僧侶の身体が左右2つに割れて地面へ倒れます。その斬れ味に驚いた男が、杖として突いていた太刀に目をやると、道に転がっていた石がまるで串団子のように太刀に刺さっていたのです。恐ろしいほどの斬れ味を示すこの逸話により、以降この太刀は八丁念仏、もしくは「八丁念仏団子刺し」と呼ばれることになったとされます。
逸話に登場する八丁念仏で僧侶を斬った男の名は「鈴木重朝」(すずきしげとも)で、別名を「雑賀衆」(さいがしゅう:現在の和歌山県を拠点とする鉄砲傭兵)の棟梁「雑賀孫一」(さいかまごいち)です。雑賀孫一は、1570年(永禄13年/元亀元年)に「織田信長」と「大坂本願寺」(おおさかほんがんじ:大阪府大阪市中央区)が争った、「石山合戦」(いしやまがっせん)において大坂本願寺側に付き、鉄砲隊を操って織田信長を苦しめた人物とされています。
雑賀孫一の太刀・八丁念仏は、幕末まで雑賀家に伝わり、明治維新以降に水戸徳川家が買い上げました。その後、1923年(大正12年)の「関東大震災」で焼失したとされていたのです。ところが、焼身(やけみ)となった八丁念仏と伝わる刀身(とうしん)が水戸徳川家で保存されていたことが分かり、現在は「徳川ミュージアム」(茨木県水戸市)にて所蔵。なお、八丁念仏の茎(なかご)には、平安時代に備前国(現在の岡山県東南部)で活躍した刀工「備前助村」(びぜんすけむら)の4字銘(めい)が切られています。