「水心子正秀」(すいしんしまさひで)は、日本刀作りの歴史に大きな変革をもたらした江戸時代後期の刀工で、本名は「鈴木三治郎」(すずきさんじろう)です。水心子正秀は1750年(寛延3年)、出羽国(現在の山形県)に生まれ、農具などを作る野鍛冶から始め基礎を身に付けると、武蔵国八王子(はちおうじ:現在の東京都八王子市)の「下原派」(したはらは)で実戦的な日本刀の作刀技術を習得。1774年(安永3年)には、山形藩(現在の山形県山形市)2代藩主「秋元永朝」(あきもとつねとも)に召し抱えられ、「水心子」の号(ごう)を用い始めました。
1781年(安永10年/天明元年)に江戸へ出たあと、古刀(ことう:平安時代中期から安土桃山時代の日本刀)の作刀技術を学ぶと、「美術的に優れた物ではなく、古刀のような実用向きの日本刀づくりに復古すべき」とする「刀剣復古論」を展開。自ら古刀の鍛法の再現に注力しました。これに多くの刀工が共鳴し、以降の鍛刀(たんとう)法に多大な影響を与えたのです。
水心子正秀の初期の作風は、華やかな大坂新刀の影響もあって、濤瀾乱れ(とうらんみだれ)、あるいは匂口(においぐち)の深い直刃(すぐは)調の刃文(はもん)が特徴的。後期には、刀剣復古論を実践し、古刀の伝統である「相州伝」(そうしゅうでん)と「備前伝」(びぜんでん)を継承した作風となります。焼刃(やきば)は匂口の締まった小丁子(こちょうじ)の乱刃(みだれば)、地鉄(じがね)は無地風になりましたが、製鉄技術の向上もあり独特な優美さが見られるようになりました。
生涯に369振を作刀したとされる水心子正秀は、「刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作」(かたな めい すいしんしまさひで てんみょうごねんにがつひほりどうさく)、「刀 銘 天秀 水心子白熊入道正秀(刻印)」(かたな めい あまひで すいしんしはぐまにゅうどうまさひで[こくいん])などが有名です。