「泛塵」(はんじん)は、室町時代に越中国(現在の富山県)の刀工「宇多国次」(うだくにつぐ)が作刀した脇差(わきざし)です。宇多国次は、大和国宇多(うだ:現在の奈良県宇陀郡)から越中国へと移住してきた、「越中宇多派」(えっちゅううだは)の祖「宇多国光」(うだくにみつ)の孫。平造り(ひらづくり)の脇差や短刀に名作を数多く残しました。泛塵とは「浮塵」(ふじん)と同義語であり、「人間の命は宙に浮く塵のようにはかない存在である」とする悟りの境地を指します。また、煩悩(ぼんのう)や悪魔を打ち破る仏法の力を示す言葉で、鋭利な刃物を意味する言葉でもあるのです。
この泛塵は、戦国武将「真田幸村」(さなだゆきむら:真田信繁[さなだのぶしげ])が愛用し、長さは60cm程度と推測。なお、真田信繁は、当時の名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に磨上げ(すりあげ)させており、茎(なかご)の表には泛塵の名とともに真田信繁が帯刀(たいとう)したこと、裏には宇多国次が作刀し、堀川国広が磨上したことが「金象嵌」(きんぞうがん:溝を彫って金を埋め込む技法)で入れられています。
真田信繁は、1615年(慶長20年/元和元年)に「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)で討死し、泛塵は「高野山金剛峯寺」(こうやさんこんごうぶじ:和歌山県伊都郡高野町)より売却。しばらくの間、泛塵の行方は不明でしたが、江戸時代中期に紀州藩(現在の和歌山県和歌山市)の儒学者で、日本刀に造詣が深い「伊藤蘭嵎」(いとうらんぐう)を経て、幕末には紀州藩士「野呂介石」(のろかいせき)のもとへと渡りました。しかし、それ以降の泛塵の所在や持ち主については確認されていません。
※泛塵の刀剣イラストは、文章情報を参考に描き起こしたイメージイラストです。