「南海太郎朝尊」(なんかいたろうちょうそん)は、1805~1806年(文化2~3年)頃に生まれ、幕末に活躍した土佐国高岡郡黒岩村(くろいわむら:現在の高知県高岡郡佐川町)出身の刀工。また、刀剣研究家でもありました。本名は「森岡善右衛門」(もりおかぜんえもん)とされ、当初は家業の「大鋸」(おが)と呼ばれる大型のこぎり鍛冶でしたが、1818年(文化15年/文政元年)に刀工への転向を決意。反対する妻と離別し、京都の名工「伊賀守金道」(いがのかみきんみち/かねみち)、江戸の名工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)のもとで作刀を学びました。
天保年間(1831~1845年)に江戸で独立。京都・大坂(現在の大阪府大阪市)、また土佐藩(現在の高知県高知市)城下でも作刀したのち、晩年は京都洛北岩倉(いわくら:現在の京都府京都市左京区岩倉)で暮らしています。多くの弟子を受け入れた南海太郎朝尊は、師の水心子正秀が提唱する「刀剣復古論」に同調し、実用本位の復古理論に基づく鍛刀法(たんとうほう)を弟子達へ伝授しました。また、「刀剣五行論」(とうけんごぎょうろん)、「新刀銘集録」(しんとうめいしゅうろく)、「宝剣奇談」(ほうけんきだん)などの日本刀を解説した著書もあります。
南海太郎朝尊の作風は、姿優しく地鉄(じがね)は硬く無地風。刃文には丁子乱れ(ちょうじみだれ)、大乱れ(おおみだれ)、さらに直刃(すぐは)の物も見られます。なお、南海太郎朝尊は、彫刻を好んだことに加え左利きだったため、茎(なかご)の鑢目(やすりめ)が逆鑢(ぎゃくやすり)となっているのが特徴です。「大太刀 銘 南海太郎錬之 弘化三年丙二月日」、「刀 銘 南海太郎朝尊 天保五 八月日」などが現存。「維新土佐勤王史」(いしんとさきんのうし)には、土佐藩郷士「武市半平太」(たけちはんぺいた)が、宿毛(すくも:現在の高知県宿毛市)滞在中に南海太郎朝尊の日本刀を購入したという話が残されています。