「後家兼光」(ごけかねみつ)は、「豊臣秀吉」が亡くなったときに形見分けとして「直江兼続」(なおえかねつぐ)に下賜された打刀(うちがたな)です。無銘(むめい)ですが、備前国(現在の岡山県)「長船派」(おさふねは)の「長船兼光」(おさふねかねみつ)の作刀と伝えられています。
なお、直江兼続は、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の2代に仕えた戦国武将。1620年(元和6年)の直江兼続の死没を経て、後家(未亡人)となった正室「お船の方」(おせんのかた)が、夫・直江兼続の打刀を上杉家へ献上したことが後家兼光の名の由来です。その後、後家兼光は幕末まで米沢藩(現在の山形県米沢市)の上杉家にて受け継がれました。
そののち、上杉家は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)で、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)の一員として戦い、明治新政府軍に敗北。しかし、土佐藩(現在の高知県)15代藩主「山内容堂」(やまうちようどう)の嘆願により、大きな咎めを受けませんでした。上杉家はその恩義に深く感謝し、後家兼光が山内家へ贈られたのです。
後家兼光は、もともとは90cm余りもあったとされる雄壮な大太刀(おおだち)を短くした大磨上げ(おおすりあげ)の打刀。全体は非常に健全で、刃文は焼幅の広い湾れ(のたれ)に小互の目(こぐのめ)を交えて焼かれ、長船兼光の典型的な作風を表しているとされます。もともとが大太刀だっただけに身幅は広く、大鋒/大切先(おおきっさき)も豪快で目釘孔(めくぎあな)は2つ。なお、上杉家から山内家へ贈られる際、総長111cmの「芦雁蒔絵鞘打刀拵」(あしかりまきえざやうちがたなごしらえ)も新調され、半太刀風の豪華で格調高い拵(こしらえ)となっています。