刀工「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)は1618年(元和4年)生まれで、本名は「飛田/冨田宗兵衛」(とんだそうべえ)です。紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)では「石堂派」(いしどうは)の祖「安広」(やすひろ)に師事し、江戸に出てからは、「和泉守兼重」(いずみのかみかねしげ)、さらに江戸幕府の「御用鍛冶」(ごようかじ)である二代「康継」(やすつぐ)のもとで腕を磨いたとされます。そののち、神田(かんだ:現在の東京都千代田区)を拠点として活動し、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)、「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)らと並び江戸新刀を代表する名工です。
この大和守安定の使い手として知られるのが、京都で勤王志士(きんのうしし:天皇を尊び外敵を排する思想を掲げた武士)達に恐れられた、新選組一番隊長の「沖田総司」(おきたそうじ)とされています。同じ新選組の「大石鍬次郎」(おおいしくわじろう)や、遊撃隊(ゆうげきたい:江戸幕府軍の部隊)の「伊庭八郎」(いばはちろう)の佩刀(はいとう)でもあり、実戦的な日本刀を求める幕末の剣士達の間で人気が高かったのです。
作風としては、刀身(とうしん)の反りは浅く先細りの剣形。刃文は小沸(こにえ)出来で、華やかな「互の目乱れ刃」(ぐのめみだれば)が見られます。また、斬れ味を出し、鋼に粘りを出して折れと曲がりに強くする「焼戻し」の技にも長けていました。さらには、江戸幕府の試し切り役である「御様御用」(おためしごよう)によって、「天下開闢以来五ツ胴落」(てんかかいびゃくいらいいつつどうおとし:重ねた人体を5体分斬れたとの意味)の金象嵌銘(きんぞうがんめい:彫った溝に金を埋め込んだ銘[めい])が入れられた作例もあったほどです。
なお、大和守安定の作刀例には、特別保存刀剣「刀 銘 大和守安定 山野勘十郎裁断金象嵌銘入」(かたな めい やまとのかみやすさだ やまのかんじゅうろうさいだんきんぞうがんめいいり)や、宮城県指定有形文化財「脇差 冨田大和守安定作」(わきざし とみたやまとのかみやすさださく)などがあります。