本短刀は、鎌倉時代の山城国(現在の京都府)の刀工で短刀の名手「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)作の短刀で、「享保名物帳・焼失の部」記載の名物。
1493年(明応2年)に起こった「明応の政変」で、政敵・細川政元(ほそかわまさもと)に敗れた室町幕府官領・畠山政長(はたけやままさなが)は、この吉光の短刀で自害しようとしますが、どうしても刃が腹に刺さりません。切腹できないことに腹を立てた畠山政長が刀を放り投げると、「薬研」(やげん)という薬を調合するための鉄製の器具に突き刺さったとする逸話からこの名が付きました。のちに、「鉄の薬研を貫くほど切れ味が鋭いのに、主人の腹を切ることはできない」刀として知られるようになったのです。
そののち、足利将軍家に伝わり、13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)殺害の際に松永久秀(まつながひさひで)に奪われ、織田信長に献上されました。その後の経緯には諸説あり、「本能寺の変」で織田信長自害の際に焼け落ちたとも、その後豊臣家に伝わり、「大坂夏の陣」で行方不明になったとも、さらに河内国(現在の大阪府)の農家から見つかり、徳川幕府2代将軍徳川秀忠に献上されたとも言われますが、現在の所在は不明です。