本刀は、鎌倉時代に「来国俊」(らいくにとし)によって作られたとされる大太刀(おおだち)。「阿蘇神社」(熊本県阿蘇市)が所蔵していたことから「阿蘇の蛍丸」(あそのほたるまる)の別名を持ちます。
「蛍丸」(ほたるまる)の名称は、阿蘇神社の神職「阿蘇惟澄」(あそこれずみ)にまつわる、ある逸話が由来。その逸話は、江戸時代に熊本藩(現在の熊本県)の藩士で刀工でもあった「松村昌直」(まつむらまさなお)が著した「刀剣或問」(とうけんわくもん)に記されています。
1336年(延元元年/建武3年)、「多々良浜の戦い」(たたらはまのたたかい)に阿蘇惟澄が参戦したときのこと。阿蘇惟澄は、蛍丸を振るって南朝の武将「菊池武敏」(きくちたけとし)を助けますが、合戦の結果は敗戦。その夜、蛍丸の刀身に不思議なことが起こります。蛍丸は激戦によって刃こぼれが生じていましたが、その欠片が蛍丸のもとへ飛んできて、刃こぼれした箇所へ納まり、ひとりでに修復したのです。欠片が飛び交っていた様子が蛍のように見えたことから、阿蘇惟澄は蛍丸と名付けたと伝わります。
なお、蛍丸の名称由来には異説が存在。1943年(昭和18年)に出版された海軍少将「武富邦茂」(たけとみくにしげ)による著書「日本刀と無敵魂」には、「阿蘇惟澄は、合戦後の夜に蛍丸の刃こぼれした箇所に無数の蛍が群がる夢を見た。目が覚めて太刀を見ると、刃こぼれが修復していたことから蛍丸と名付けた」と書かれています。
蛍丸は、1933年(昭和8年)に国宝指定され、太平洋戦争までは阿蘇神社が所蔵していました。太平洋戦争がはじまると地元の警察へ預けられます。しかし、終戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が行った武装解除を目的とした武器接収、通称「昭和の刀狩り」で接収されて以降、行方が分からなくなりました。
そののち、2015年(平成27年)になると蛍丸の「写し」(うつし)を阿蘇神社へ奉納するための「蛍丸復元奉納プロジェクト」が開始。このプロジェクトは、クラウドファンディングで支援金を集め、現代刀匠によって蛍丸を復元し、それを阿蘇神社へ奉納するという企画です。
募集が開始されてわずか5時間で目標金額の550万円に到達。最終的に4,500万円を超える支援金が集まり、のちに岐阜県関市の現代刀匠「福留房幸」(ふくどめふさゆき)氏と、大分県竹田市の現代刀匠「興梠房興」(こおろきふさおき)氏によって合計で3振の「蛍丸の写し」が作られました。
このうち、真打(しんうち:作刀したなかで最も出来が良い作品)の1振は阿蘇神社へ奉納。影打(かげうち:真打を除いた作品)の2振は、岐阜県関市の「関鍛冶伝承館」と、最高額の支援金を出資した出資者の方へ贈られました。