本刀「笹貫」(ささぬき)は、平安時代後期から鎌倉時代に薩摩国(現在の鹿児島県)で活躍した刀工「行安」(ゆきやす)が打った太刀(たち)です。行安は大和国(現在の奈良県)から薩摩国に移住し、波平派(なみのひらは)の祖として作刀を開始。同派は江戸時代まで活動したと伝わります。
本刀の号(ごう)は、幾枚にも重なった笹の葉を貫いたことに由来して付けられました。それは、行安が鍛冶場を覗かないよう妻に言い付けていたことにはじまります。しかし様子が気になって見に来た妻に行安は怒り、近くの竹藪に仕上げ間近の刀を放り投げてしまいました。その竹藪からは夜な夜な不思議な光が放たれるようになり、付近の村人が確認しに行ったところ、逆さになった刀の鋒/切先(きっさき)に無数の笹の葉が突き刺さっていたという逸話をもとにしています。
さらにそののち、妖刀ではないかと不気味がられ海に捨てられてしまいました。すると再び同じように海中から光を放ったことから、今度は島津家の庶流となる樺山家(かばやまけ)の者が拾い上げ、島津家に献上。しかし島津家でも怪異が続いたことから樺山家に返され、以降も同家に伝わったと言います。
これについて刀剣研究家の「福永酔剣」(ふくながすいけん)氏は、これらの逸話は波平派の刀工らが上福元村笹貫(現在の鹿児島市東谷山)に居住していたことから、のちの時代に創作されたのではないかと推測しているのです。
本刀は、鎬(しのぎ)が高く、鋒/切先は猪首(いくび)、全体的に反り(そり)の深い姿(すがた)をしています。刃文は直刃(すぐは)で、地鉄(じがね)は板目肌(いためはだ)の模様に柾目肌(まさめはだ)が交じるなど大和伝(やまとでん)を想起する造り。また、室町時代頃に作られたとする拵(こしらえ)が付属し、金具には島津家家紋となる「丸に十字紋」が据えられています。