「光平」は、新刀期の「江戸石堂」(えどいしどう)派を創始した刀工のひとり。近江国蒲生郡(おうみのくに・がもうぐん:現在の滋賀県蒲生郡)から江戸の赤坂に来住し、そののち、出羽守(でわのかみ)を受領。そして1663年(寛文3年)頃には、法橋(ほっきょう)に叙せられた名工です。
後年には信州松代藩(しんしゅう・まつしろはん:現在の長野県長野市松代町)の真田家(さなだけ)に召し抱えられ、同藩に移住しています。摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北西部、及び兵庫県南東部)の「大坂石堂」(おおさかいしどう)派の代表的刀工「多々良長幸」(たたらながゆき)と共に、東西の備前伝(びぜんでん)の名人です。
本刀は、地鉄に小杢目と小板目が交じり、さらに乱映りが盛んに立っています。また、刃文は匂(におい)本位の丁子乱(ちょうじみだれ)で、「古一文字」(こいちもんじ)を彷彿とさせる1振です。