「村正」は、伊勢国桑名(いせのくに・くわな:現在の三重県桑名市)で栄えた刀工の一派。
同工にまつわる伝説「妖刀村正」(ようとうむらまさ)はあまりにも有名ですが、その由来は、1535年(天文4年)、「徳川家康」の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)が村正で暗殺されたことから始まります。
その後、家康の父・「松平広忠」(まつだいらひろただ)も村正で殺害され、家康の長男・信康(のぶやす)が切腹させられたときの介錯にも、村正が用いられました。また、「関ヶ原の戦い」では、家康自身が村正の槍で負傷。そのため徳川家では、村正を不吉な刀として忌み嫌ったと伝えられています。
村正帯刀禁止令が出されたという説もあり、非常に多くの村正の短刀が、その銘を削り取ったり、改ざんされたりしているのです。その反面、反徳川派であった大名は、密かに村正を求めていたとも言われています。
しかし、現代においては、徳川家が村正を恐れて嫌ったという説は否定されており、妖刀村正の伝説も、後世の創作であるとされているのです。実際に「徳川美術館」には、家康の遺品として、「尾張徳川家」(おわりとくがわけ)に伝来した村正が所蔵されています。
本短刀の作風は、湾れ(のたれ)調に小互の目(ぐのめ)、小湾れが交じり、砂流しがかかって小沸(こにえ)が付き、匂口(においぐち)は明るく、表裏に揃った刃文を焼くなど、村正の特徴をよく示すもの。 また、附帯する短刀拵は江戸時代末期に制作され、金梨子地に獅子と牡丹の蒔絵が施された作品。その金具も獅子と牡丹の1作となっており、華やかで美しい1振です。