本刀の作者は、「大坂新刀」において、名人「助広」(すけひろ)と人気を二分した刀工である2代・「国貞」(くにさだ)です。国貞は1630年(寛永7年)、大坂新刀の祖として名高い初代「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)の次男として生まれ、初銘は初代と同じく「国貞」と切っていました。
2代国貞は、1650年(慶安3年)頃には、老齢となっていた父の代作をすでに多数務めており、1652年(承応元年)に「和泉守」を受領。そして1661年(万治4年)、朝廷より16葉の菊花紋を使用する勅許を受けています。
その後、「井上和泉守真改」と銘しましたが、1672年(寛文12年)8月より「井上真改」に改めたのです。真改の父も「国貞」の銘を用いたことから両者を区別するために、初代の作刀を「親国貞」、真改の刀を「真改国貞」と呼ぶことがあります。
真改初期の作柄は、初代のそれを受け継いだ沸(にえ)できで大互の目乱(おおぐのめみだれ)が特徴。しかし、1665年(寛文5年)以降は、相州伝(そうしゅうでん)古作を狙い、そのでき映えが同伝を確立した「正宗」(まさむね)のように優れていたことから、真改は「大坂正宗」と称されるようになりました。
具体的には、荒沸本位の広直刃に湾れ乱(のたれみだれ)が交じる刃文を得意とし、また、深く華やかな沸がその一面に付く傾向が見られるなど、「正宗十哲」(まさむねじってつ:正宗の10人の高弟)の中でも、最も高い技術を持っていたと評される「郷義弘」(ごうよしひろ)を理想として、その写しの制作にも取り組んでいます。
真改の作柄にこのような変遷が見られるのは、日本刀の需要が戦を生業としていた武人から、裕福な町人へと移行していったことに由来すると考えられているのです。