初代「忠吉」(ただよし)の嫡子である2代「近江大掾忠広」の作品。
忠吉は、「新刀の祖」と称される名工「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)の門人で、江戸時代における日本刀制作の最大流派のひとつ、「肥前刀」(ひぜんとう)の実質上の開祖でもありました。1632年(寛永9年)に忠吉が亡くなると、忠広は数えで19歳の若さで2代当主となったのです。そして同年には、すでに忠広の作刀が見られます。
忠広は1641年(寛永18年)に「近江大掾」を受領し、1693年(元禄6年)に没しました。忠広は、亡くなる間際まで槌を振るっていたと伝えられ、その作刀歴はおよそ60余年。肥前刀工の中で、最も多くの優品を遺しているのです。
本刀は、小板目肌(こいためはだ)に地沸(じにえ)が微塵によく付き、地景(ちけい)が細かく入った小糠肌(こぬかはだ)に中直刃(なかすぐは)を焼いています。また、匂(におい)は深く沸が厚く付き、金筋や砂流しがかかるなど、2代・忠広の典型的な作風を示しており、彼の真骨頂が遺憾なく発揮された名品です。