「正友」は、陸奥国相馬中村藩(むつのくに・そうまなかむらはん:現在の福島県相馬市)6万石の藩主であった相馬家のお抱え刀工。しかし、寛文年間(1661~1673年)頃には山城国(やましろのくに:現在の京都府中南部)で、その後は江戸にも住して作刀を行なっていました。
本刀の茎(なかご)には「貮ツ胴截断上大脇下二ノ胴」という截断銘(せつだん/さいだんめい:実際に日本刀の切れ味を試した証しとして、茎に残した銘文)が切られていますが、これは罪人の首を切ったあと、試し切りのためにその体を2体重ね、骨の多い脇の下を一刀のもとに截断(せつだん/さいだん)するのに、本刀が用いられたことを意味しているのです。
また、この試し切りは、江戸時代初期の幕府における刀剣御試役「山野加右衛門」(やまのかえもん)の弟子であった「柴崎伝左衛門正次」(しばざきでんざえもんまさつぐ)によって行なわれたことが、同じく銘から窺えます。