「鬼の半蔵(おにのはんぞう)」の異名を取り、のちに「徳川家康(とくがわいえやす)」に仕えることになる「服部正成(はっとりまさなり)」は、1542年(天文11年)に、「服部保長(はっとりやすなが)」の4男として、三河国伊賀(みかわのくにいが:現在の愛知県岡崎市伊賀町)に生まれました。
家康のもと、「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」などにおいて、同じく家康の重臣であった「本多[平八郎]忠勝(ほんだ[へいはちろう]ただかつ)」と共に武功を挙げた正成は、褒美として槍と伊賀衆150人を預けられました。その後、家康が江戸に入ると、与力30騎と伊賀衆200人を采配するようになったのです。
美濃国の名工・直江志津によって制作された本刀は、美濃刀をよく用いていた伊賀衆を統率する立場にあった正成から、忠勝の家老「梶金平勝忠(かじきんぺいかつただ)」に送られた名刀だと伝えられています。
本刀は、大磨上無銘となっていますが、身幅が広く、反りがやや深めに付いて大鋒である姿は、南北朝時代の特色をよく示しており、板目肌に流れ肌が交じる鍛えに、湾れ(のたれ)を基調とした刃文には、互の目や小丁子(ちょうじ)尖り刃など多岐にわたる変化が見られ、同工の作風がはっきりと現れた1振です。