初代「国貞」は、新刀の祖と称される「堀川国広(ほりかわくにひろ)」の門人であり、1614年(慶長19年)に国広が亡くなったあと、その高弟であった「越後守国儔(えちごのかみくにとも)」に師事。
そこから独立後の1620年(元和6年)には大坂に移住し、1623年(元和9年)に「和泉守」を受領。その後、日向国飫肥藩(ひゅうがのくに・おびはん:現在の宮崎県日南市)3代藩主「伊東祐久(いとうすけひさ)」に、知行100石で仕えるようになります。
1657年(明暦3年)4代藩主・祐由(すけみち)が家督を継ぐ際、同藩5万4,000石のうちの3,000石を弟の祐春(すけはる)に分知して5万1,000石となりましたが、その際、祐春に与えられた日本刀の1振が本刀でした。
和泉守国貞は、藩主・祐久より自筆の絵を与えられるほどの厚い信任を得ていましたが、晩年は健康が優れなかったこともあり、入道して「道和(どうわ)」と号し、嫡子「井上真改(いのうえしんかい)」に代作・代銘をさせていたのです。
本刀には、ちょうどその時期に用いられていた草書銘(道和銘とも)が切られており、真改代作の1振であると見極められています。なお、真改自身も壮年期頃までは父と同じく国貞銘を切っていたので、両者を区別するために、初代は「親国貞」とも呼ばれているのです。
また、「大業物(おおわざもの:切れ味が非常に優れた日本刀)」と評された本刀は、江戸時代の剣豪たちが好んで用いていた刀でもありました。
例えば、赤穂浪士(あこうろうし)四十七士の「堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)」は、わざわざ旗本から国貞の刀を借りてから高田馬場(たかだのばば)の決闘に臨んだほど。この他にも、直心影流(じきしんかげりゅう)剣術の使い手であり、「幕末の剣聖(ばくまつのけんせい)」と称されていた「男谷精一郎信友(おたにせいいちろうのぶとも)」も、国貞を愛刀の1振としていました。
本刀の作風は、地景(ちけい)・金筋が目立ち、匂(におい)が非常に深く匂口は明るく冴え、小沸(こにえ)が厚く付いています。