「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)は、1590年(天正18年)、日向国木花(ひゅうがのくにきばな:現在の宮崎県宮崎市大字熊野)の西教寺(さいきょうじ)で生まれました。住職の子であったため、同寺を継ぐ立場でありましたが、刀工になることを決意して、同じ日向国の出身であった先輩「堀川国広」(ほりかわくにひろ)を頼って京都に行き、その門下に入ったのです。
師であった国広が亡くなったあと、国広一門の中でも極めて優秀であった「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)に師事。同門の「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)と共に大阪に移住。両者は、「大坂新刀の祖」と称されています。
「大業物」(おおわざもの)に列せられた国貞は、赤穂浪士四十七士のひとりである「堀部安兵衛」(ほりべやすべえ/ほりべやすびょうえ)が、高田馬場の敵討ちの際に、わざわざ旗本から借りて行った刀として知られています。
さらには、「勝海舟」(かつかいしゅう)の義理の従兄弟で、幕末の剣豪としても有名な「男谷精一郎信友」(おたにせいいちろうのぶとも)の愛刀も、和泉守国貞であったと伝えられているのです。
初期の国貞の作風は、身幅が広く反りの浅い姿に、その刃文は沸本位(にえほんい)のよく揃った互の目(ぐのめ)乱れでしたが、晩年になると、互の目乱れの中にも刃色がよく冴えたものに変化し、美術的価値と実用性の両面をかね備えるようになりました。