初代「三善長道」は、江戸時代の陸奥国会津藩(むつのくに・あいづはん:現在の福島県)の「会津松平家」に仕えた名匠です。徳川幕府の御試御用首斬り役「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)が刊行した刀剣評価書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)では、長道自身が刀工として最上位の「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に選ばれます。切味の良さから、「会津虎徹」、「会津正宗」などとも称されました。
長道は、1633年(寛永10年)の会津生まれ。叔父「長俊」(ながとし)に作刀を学び、はじめは「三好道長」と称していましたが、1658年(万治元年)8月13日に陸奥大掾を受領した際、「三善長道」に改めます。これは、「藤原道長」と同字であったため、差し障りがあるという朝廷側の判断によったもの。
のちに江戸に出て試刀家の「山野勘十郎久英」(やまのかんじゅうろうひさひで)に斬れ味についての技術を学びます。
1685年(貞享2年)に53歳で没。その後も長道の名は、明治に至るまで襲名され続けています。
三善長道の作には、大和伝・美濃伝・新刀特伝の三伝法があり、本刀は、新刀特伝の作で、同じ最上大業物である長曽根虎徹に似る作風です。ガッチリとした寛文新刀の刀身に樋を彫り、地鉄強く、小板目肌に柾目肌が交じっています。刃文は、焼幅広く、互の目乱れを焼き、帽子は小丸に返り、やや棟に寄っています。