本太刀は、1761年(宝暦11年)8月、庄内藩(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)5代藩主であり、鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)の城主であった「酒井忠寄」(さかいただより)が、老中職の任期が満了となった際に、江戸幕府10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)より拝領した日本刀。以後、酒井家に伝来した名宝として知られている1振です。
また、本太刀に関する史実は、「徳川実紀」(とくがわじっき:家康から家治までの歴代将軍の治績について、日付順にまとめた江戸幕府の公式史書)のうち、家治の部である「浚明院殿御実紀」(しゅんめいいんでごじっき)に、「光則の御刀賜はりて労し給ふ」と記載されています。
「光則」は、備前鍛冶「吉井」(よしい)派の刀工。同派は、鎌倉時代末期に「為則」(ためのり)を始祖とし、吉井川(よしいがわ)を挟んで長船(おさふね)の対岸の地に起こり、南北朝時代から室町時代にかけて繁栄した刀工集団です。
添付の折紙(おりがみ)によれば、「本阿弥」(ほんあみ)宗家14代当主「光勇」(こうゆう)が、1746年(延享3年)に本太刀について極めており、「金子弐拾枚、約壱百五拾両四百貫相当」という格付けが記されています。