「大和守安定」は江戸時代の武蔵国(むさしのくに:現在の東京都、埼玉県、神奈川県東部)の刀工。新刀上々作にて良業物。
「石堂」(いしどう)出身でありながら、その作風が見られない物が多く、「康継」(やすつぐ)一門と相当密接な関係にあり、初代「康継」の門人であったと言われています。ただ、「小笠原信夫」の著書「長曽祢乕徹新考」(ながそねこてつしんこう)によれば、康継一門よりは「和泉守兼重」(いずみのかみかねしげ)と深いかかわりがあったとのことです。
1655年(明暦元年)、安定は伊達家により仙台へ招かれ、「徳川家康」の命日に仙台東照宮へ1振、「伊達政宗」の命日に瑞鳳殿(ずいほうでん)へ1振、奉納刀として納めました。瑞鳳殿の奉納刀は、戦後、伊達家より改めて瑞巌寺(ずいがんじ)へ奉納されています。なお、安定の弟子である「安倫」(やすとも)は、その後、仙台の刀工として明治まで9代続きました。
本刀は、身幅広く、反りが浅い寛文新刀姿で、刃文は、大互の目(おおぐのめ)乱れで沸(にえ)・匂が深く、砂流しがかかっています。帽子は、湾れ(のたれ)込んで小丸に返るのが特徴。全体を観るに、豪壮で力強い作となり、鞘書きに「佐藤寒山」(さとうかんざん)博士の書付で、「同作中佳作也」のお墨付きがあります。