本槍は、1600年(慶長5年)頃に予州(よしゅう:現在の愛媛県)松山城主「加藤嘉明」(かとうよしあきら/よしあき)に仕えて藩工となった「為康」(ためやす)の作品と伝えられています。1627年(寛永4年)5月に城主が転封となると、それに付き従って為康も会津若松(あいづわかまつ:現在の福島県)に移住しました。その後、為康の一門は1688年(元禄元年)頃まで数代続いています。
穂の部分は籠槍(かごやり:護身用として駕籠の中に忍ばせた小型の槍)のように約9cmと小さく、もともとは大名行列の際に使われていました。地鉄は板目肌で、刃文は直刃(すぐは)を焼き、匂口が締まっているのが特徴です。