本脇差の所有者であった馬場家は、「木曽義仲」(きそよしなか)を先祖とし、「関ヶ原の戦い」のときに、「馬場昌次」(ばばまさつぐ)が「徳川秀忠」に拝謁。美濃国(現在の岐阜県)の「明知城」・「岩村城」攻めに功を挙げ、美濃国土岐郡釜戸村に1,600石を領し、のちに2,000石に加増され、明治に至った名家です。
茎(なかご)の裏銘には「馬場氏」とあり、これは「馬場克昌」(ばばかつまさ)のこと。克昌は、江戸時代後期の旗本で、博物学者・植物画家でもあった人物です。父は日光奉行の「馬場讃岐守尚之」(ばばさぬきのかみなおゆき)。克昌は1812年(文化9年)に家督を継ぎました。
本脇差は、3代「水心子正次」(すいしんしまさつぐ)の作品で、地鉄(じがね)は柾目(まさめ)が詰んで地沸(じにえ)付き、沸出来の互の目乱れ(ぐのめみだれ)に足が入っています。優れた作品として「新々刀大鑑」(しんしんとうたいかん)にも所載されている名刀です。