「円龍子国秀」は「中山一貫斎義弘」の門人で、天保頃には上野国安中藩・板倉家の御抱え工としても活躍していた刀工です。幕末の志士「坂本龍馬」が、土佐へ持ち帰った愛刀「相州鎌倉住国秀 嘉永七年八月」の作刀依頼を、国秀へ行なうきっかけを作ったのが本刀であると言われています。
本刀の注文主は、「宮和田光胤」(みやわだみつたね:桓武平氏から分かれた千葉氏の血筋で、下総国相馬郡宮和田村(現:取手市)の名主。剣客としても有名)。光胤は龍馬と同じ北辰一刀流・千葉一門で、龍馬が国秀へ依頼をした時期にはすでに、光胤は国秀から本刀を受け取って佩刀していました。その出来の良さを気に入った龍馬が国秀へ依頼をしたのではないかと見られています。
本刀の銘は「圓龍斎」(えんりゅうさい)となっていますが、この斎の部分は師である「一貫斎義弘」の「斎」から取ったものと言われており、円龍子がこのように銘の一部を変えるのは非常に珍しいことです。円龍子が師の名前を銘に切った理由は明確になっていないため、覚悟の現れであるとか、一貫斎義弘が作刀に際して監督をしていたのではないかなど、様々な憶測があります。
本刀は身幅尋常で重ねは厚く、大板目(おおいため)に杢目(もくめ)を交え、互の目(ぐのめ)は多彩な変化に富み、足、葉(よう)、砂流し(すながし)に金筋(きんすじ)まで複雑に現れて、見る人の目を大いに楽しませてくれます。
太刀拵え(たちこしらえ)も「革包太刀」(かわづつみたち:柄と鞘全体を革で包んだ太刀拵え)となっており、柄巻等の糸部分には黒漆を塗り、野外における実戦にも耐えられるような工夫が施され、長寿の象徴である亀甲紋を施した鍔(つば)、目貫(めぬき)に配した「這龍」(はいりゅう:這うように描かれた龍神。江戸時代に流行した、目貫へ施す図柄のひとつ)に至るまで、幕末の動乱を駆け抜けた志士にふさわしい名刀となっています。