本刀は、備前岡山藩(現在の岡山県)31万石の筆頭家老「伊木長門守忠澄」(いぎながとのかみただすみ)の愛刀であり、本刀と忠澄が共に写った写真も現存しています。
忠澄は、岡山県虫明(むしあげ)に3万3,000石を領しました。茶道にも造詣が深く、現代までその伝統が続く虫明焼(むしあげやき)を焼かせたことでも知られる人物です。
1853年(嘉永6年)の黒船来航に際しては、藩兵を率いて現在の千葉県館山市周辺を警護。1871年(慶応4年)には、岡山県大参事(だいさんじ:現在の副知事にあたる役職)となっています。
本刀の制作者である「国広」の作風は、おおむね2種類に大別され、京都堀川に定住する以前の「天正打ち」と呼ばれる作品は、末相州や末関風に見える作刀が多く、堀川定住後の「慶長打ち」は、相州の名工を模範とした作品が多いです。
本刀の地鉄(じがね)は、やや肌立ちごころの堀川派特有の特徴を備え、潤いに富み、板目肌に杢目肌(もくめはだ)を交えた鍛え肌(きたえはだ)に地沸(じにえ)厚くつき、地景(ちけい)もしきりに入る変化の妙を見せています。刃文は、流麗精美な匂口(においぐち)で、浅い湾れ(のたれ)に小互の目(こぐのめ)を交え、金筋・砂流しがかかり、相州伝の沸の妙を表現。明るく冴え渡った地鉄と刃文は健全で、慶長打ち出色の出来栄えであり、国広が作刀した中でも稀に見る傑作です。