刀工の名は、「橘康広」。紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)生まれで、「紀州石堂派」(きしゅういしどうは)の祖、土佐将監「為康」(ためやす)の子。紀州石堂派は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)福岡一文字末流の末裔と伝えられています。康広は、1657年(明暦3年)に備中大掾(びっちゅうだいじょう)、備中守を受領し、大坂に移住。
「大坂石堂派」(おおさかいしどうは)の始祖として、繁栄に一翼を担いました。のちに、大坂石堂派を代表する名工、摂津の最上大業物「多々良長幸」(たたらながゆき)などを輩出。作風は、福岡一文字風の丁子刃で乱映りのあるものと、当時大坂で流行した、小沸(こにえ)出来で匂の深い濤瀾刃(とうらんば)を焼くものがあります。