「藤原清人」は、「江戸三作」のひとりと謳われた「源清麿」(みなもとのきよまろ)の弟子。作風は、師風をよく守った豪壮な姿に、大和伝の柾目鍛えと、相州伝の荒沸本位の乱刃という二様があり、上手です。
1854年(嘉永7年)、脳震盪を悲観して、師・清麿が自害すると、1856年(安政3年)に神田小川町で開業し、尊敬心から、清麿の残した負債の殆どを、清人が弁済。さらに貧乏暮らしを続けながら、清麿の未亡人の生活のために二百両を送金したという美談があります。
1857年(安政4年)に故郷の庄内藩(しょうないはん:現在の山形県)の藩工となり、江戸四谷伊賀町などで鍛刀。1867年(慶応3年)に、豊前守(ぶぜんのかみ)を受領しました。