初代「兼里」は、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりに数えられる美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の名工「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)を父に持つ初代「兼友」(かねとも)の孫。兼友は、志津系の1系統である「直江志津」(なおえしづ)を代表する刀工。
「兼里」銘は嘉吉年間(1441~1444年)頃から元禄年間(1688~1704年)頃まで続いており、本槍は、新刀期(1596~1780年[慶長元~安永9年])の兼里によって作刀されたと伝えられている1振です。
本槍は、平三角槍(ひらさんかくやり)の形状で、刃文は匂口(においぐち)が締った直刃(すぐは)となって足・葉(よう)が入り、鍛えは板目肌が流れて柾目(まさめ)となっています。裏に太い溝のような物が彫られていますが、これは、「樋」(ひ)と呼ばれる刀身彫刻の1種。この樋により、刀身の重量が軽減されるだけでなく、曲がりにくくなるという効果が得られます。