本脇差は、「善定後裔丹波守藤原照門」と銘が切られた大刀と一揃いの作品として制作されました。同工の稀有な大小の遺作で、幕政時代の登城用の揃差大小拵が附帯するのも好ましくあります。
「照門」は美濃伝関七流(せきしちりゅう)の善定家(ぜんじょうけ)に属し、俗名を「善定惣右衛門」(ぜんじょうそうえもん)。初銘を「兼門」(かねかど)と切りました。
善定家の総領職であった「氏房」(うじふさ)が名古屋に移住すると、そのあとを継いで関鍛冶の頭領を務めます。
はじめ「丹波大掾」(たんばのだいじょう)を任官して、1659年(万治2年)に「丹波守」を受領すると同時に「照門」と改銘し、「丹波守藤原照門」などと鏨(たがね)を運んだ江戸時代の関を代表する優工です。高位の武士の需要に応じて本国濃州関の他、武州江戸、伊勢桑名で作刀したと言われています。