本刀を制作した「藤原清人」は、1827年(文政10年)生まれ。幼い頃、母の兄で庄内藩(現在の山形県鶴岡市)の御用鍛冶を務める「斎藤小四郎」の養子となりました。
1852年(嘉永5年)、25歳のときに一大決心をして、「江戸三作」、「四谷正宗」(よつやまさむね)と呼ばれた天才「源清麿」(みなもときよまろ)に入門。しかし、2年修行したときに、師・源清麿が突然自害してしまいます。他の弟子が逃げる中、その師の刀債(未納の刀)を完済し、師の妻子をも養った高潔な人として有名です。
本刀は、鎬が高く、直刃に小足が入り、小沸(こにえ)がつき冴えている大和伝の作風で、上出来。藤原清人は、1867年(慶応3年)に豊前守(現在の福岡県)を賜っており、この刀が、任官時に作刀した豊前守を冠した第一作と考えられています。