本槍は、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に、尾張国(現在の愛知県西半部)名古屋で活動した刀工「藤原国重」が制作した素槍です。
尾張国を治めていた徳川御三家のひとつ「尾張徳川家」では、「尾張貫流」(おわりかんりゅう)と呼ばれ、通常の槍とは異なる槍を用いた槍術が採用されていました。
尾張貫流は、1692年(元禄5年)に槍奉行となった「津田信之」によって開祖された槍術。尾張藩4代藩主「徳川吉通」(とくがわよしみち)が、他藩への技法流出を防ぐために「御留流」(おとめりゅう:門外不出の武術流派)としたことで知られています。
尾張貫流に用いられる槍の柄には、管が嵌められており、それを左手で握って繰り出すのが特徴。手のひらと柄の間に生じる摩擦抵抗を軽減できるため、繰り出される一撃はとても速く、「早槍」とも呼ばれていました。
また、「突き」や「引き」の動作が中心となるため、穂は素槍(真っ直ぐな形状)であることが基本。
本槍は、尾張藩士が使用していたと推測されます。