本刀の作者は、明治以前より活躍し、名刀を世に送り出した「宮本包則」(みやもとかねのり)。長命であったため作刀数も多く、五箇伝をはじめ様々な刀剣を作り上げました。
1906年(明治39年)には「帝室技芸員」に任命された刀工です。
晩年は宮中や陸海軍の軍人だけではなく、実業家や、宮本包則の後援者だった宗教家の「飯野吉三郎」(いいのきちさぶろう)などの守護刀を制作しています。
本刀は、山城物、中でも名工・来国俊に範を取って作刀された、宮本包則の作中でも出色の1振です。
姿は、大鋒で身幅広く、元先の差は目立たず、反りと重ねは頃合で、地鉄(じがね)は小板目肌に地景が入り美しく、刃文は小沸出来の直刃(すぐは)で足がよく入り、帽子は小丸に返り、指表(さしおもて)側には、沸筋(にえすじ)で二重刃が現れています。
銘文にあるように、慶応4年(1868年)の戊辰戦争における政府軍の東征で、総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が近江国(現在の滋賀県)大津に滞陣の折、その陣中で打たれた1振。日本史的にも、戊辰戦争の記録としても貴重です。