安土桃山時代にはじまり、江戸時代にかけて新刀作りを代表する鍛冶集団のひとつに、下坂(しもさか)派がいます。「下坂」とは、この鍛冶集団の発祥を指し、近江国坂田郡下坂庄(現在の滋賀県長浜市下坂中・下坂浜)のことです。
下坂派の代表格である初代康継が慶長年間(1596~1615年)のはじめに、一門を引き連れて越前国(現在の福井県)に移住。そこで「徳川家康」の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)から合力米40石で雇われ、家老の「本多成重」(ほんだなりしげ)の庇護を受けることになります。
1607年(慶長12年)に康継は、徳川家の御用鍛冶に取り立てられ、下坂鍛冶も棟梁である康継のもとで繁栄しました。
本槍の「牛角十文字槍」(ぎゅうかくじゅうもんじやり)は、下坂鍛冶による作ですが、実戦を目的とした槍ではありません。大名行列などに活用し、大名家の権威を示すための槍として作られたと考えられます。