本短刀は、江戸時代末期から明治時代の日本を代表する刀工「菅原包則」(すがわらかねのり)が、内務省から注文を受け、1886年(明治19年)に行なわれた「式年遷宮」を記念して打った作品です。「式年遷宮」とは、伊勢神宮で20年に1度、新たに造営した社殿に「大御神」(おおみかみ)が遷座する儀式のことを言います。
本短刀は、鎌倉時代後期の名工「来国光」(らいくにみつ)の作風を目指して制作された刀剣。地鉄(じがね)は小板目肌を丹念に鍛え、最高の仕上がりです。刃文は、湾れ刃(のたれば)に互の目(ぐのめ)を交え、鮮明に浮かび上がっています。
彫物は、刀剣の表側が所持者を守護する象徴の「旗鉾」(はたほこ)。裏側には、御祝事の印である「寿」の文字が刻まれています。本短刀は、祝祭のための品でありながら華美な装飾をあえて施さず、刀工が鋼に込めた魂のみが存在感を放っているのです。
菅原包則は、本名を「宮本志賀彦」(みやもとしがひこ)と言い、刀工「宮本包則」(みやもとかねのり)という名でも知られています。22歳の時、備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市内)を拠点としていた刀匠「横山祐包」(よこやますけかね)の門人となり、備前伝の技法を習得し、「包」の偏諱を与えられました。鳥取藩の家老お抱えの刀工となったのち、京都に鍛冶場を設けます。1866年(慶応2年)に孝明天皇の御剣を鍛造し、能登守を受領。また、明治天皇以下3代の守り刀を鍛える御用鍛冶となりました。
菅原包則は、式年遷宮で本短刀を制作した20年後の1906年(明治39年)、明治期を代表する刀工である「月山貞一」(がっさんさだかず)と共に、帝室技芸員に任命。月山貞一が華やかな作風であるのに比べ、菅原包則の作品は、刀姿に雄々しさが見られ、全体に落ち着いた雰囲気を保った、伝統的な作風であると言えます。