「短刀 銘 兼氏[六代]」は、美濃国(みののくに:現在の岐阜県)志津三郎兼氏(しずさぶろうかねうじ)の末裔、六代目・「兼氏」(かねうじ)による物。室町時代末期の天文年間(1532~1555年)頃に活躍したと伝わります。
南北朝時代に美濃国直江村で繁栄した刀工一派・直江志津(なおえしず)は、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりである志津三郎兼氏を祖とし、大和伝(やまとでん)と相州伝(そうしゅうでん)を取り入れて、美濃伝(みのでん)を完成させました。
しかし、直江村が度重なる洪水の被害を受けた結果、直江志津の鍛冶集団は近隣の関(せき)や赤坂へ移住していきます。関において兼氏は天正時代(1573~1592年)までに七代続いたと言われています。
本短刀は、表裏に棒樋(ぼうひ)と添樋(そえび)を彫り、当時の関で流行していた「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)と呼ばれる大互の目丁子乱れ(おおぐのめちょうじみだれ)の刃文(はもん)を焼き入れた物。兼房乱れはこの時代の美濃国に見られる刃文です。