本短刀の作者である越前守源来信吉(えちぜんのかみらいのぶよし)は、延宝年間(1673~1681年)から元禄年間(1688~1704年)にかけて活躍した刀工。名は高井金三郎。山城国(やましろのくに:現在の京都府)出身で、京都の油小路で鍛刀しました。
のちに、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)に移住し、入道して「倫信」と称します。丹波守吉道(たんばのかみよしみち)などと共に、三品派(みしなは)の発展に尽力しました。
越前守源来信吉は、大坂新刀の双璧と称される、井上真改(いのうえしんかい)・津田越前守助広(つだえちぜんのかみすけひろ)に私淑(ししゅく:ひそかに慕い、模範として学ぶこと)し、優れた直刃(すぐは)の作品を残しています。その出来は井上真改に迫るほどと言われた刀工です。天皇家の御用に携わる名門鍛冶として、菊紋を茎(なかご)に彫りました。
本短刀の刃文(はもん)は、やわらかく小沸(こにえ)が付き、匂口深く(においぐちふかく)、やや湾れ(のたれ)ぎみの直刃。差表(さしおもて:刃を上にしたときの茎の左側)には棒樋(ぼうひ)と添樋(そえび)、差裏(さしうら)に「摩利支尊天」(まりしそんてん)の5文字が彫られています。
中世以降、武士の間では摩利支尊天が信仰されました。楠木正成(くすのきまさしげ)、毛利元就(もうりもとなり)、立花道雪(たちばなどうせつ)、山本勘助(やまもとかんすけ)、前田利家(まえだとしいえ)、立花宗茂(たちばなむねしげ)などが信仰したと言われています。