本刀は、水戸藩の10代藩主「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)が自ら打った大小(だいしょう:打刀と脇差)の打刀です。
徳川慶篤の父は、水戸藩9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)。江戸幕府15代将軍の「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は徳川慶篤の弟です。
軍事力強化など革新的な藩政改革を行ったことで徳川斉昭が幕府から隠居を命じられると、徳川慶篤は1844年(弘化元年)に13歳で水戸藩主となりました。しかし、尊王攘夷派との関係に苦慮したためか、1868年(慶応4年)に37歳の若さで亡くなったのです。
公家や大名による作刀は「慰み打ち」(なぐさみうち)と呼ばれ、父の徳川斉昭も作刀しています。徳川斉昭の作刀例は20振ほどありますが、徳川慶篤は10振に満たないとされています。
刃文(はもん)は丁子乱れ(ちょうじみだれ)を主体に、高さに高低を付けてメリハリを付けています。荒沸(あらにえ)が良く付き、ところどころ飛焼(とびやき)も交ざり、帽子は乱れこんで返ります。反りはほとんどなく、棒状の姿です。
地鉄(じがね)は板目が詰み、徳川斉昭が考案した八雲肌(やくもはだ:綾杉肌や杢目肌にも似た独自の鍛え)とは異なっています。