戦国時代とファッションのかかわりを詳しくまとめました。現代では様々なファッションが楽しまれていますが、戦国時代はどのような衣類が着られていたのでしょうか。
そこで「戦国時代のファッション文化」では、武将が身に付けていた甲冑をはじめ、武将の平服・礼服、ファッションリーダーとされていた戦国武将などをご紹介しています。また、武将の衣装関連以外にも、女性・庶民の服装についても掲載。歴史好きな方、武将好きな方におすすめです。
戦国武将は、当時の人々にとって憧れの存在であり、「ファッションリーダー」でした。 安くて機能的でバラエティ豊かなファッションが手軽に楽しめる現代とは違い、布そのものが高価だった時代です。庶民には好きな服を何着も買うような余裕はなく、彼らは手に入る物でささやかなおしゃれを楽しむことしかできませんでした。 その一方で、戦場では個性豊かな甲冑(鎧兜)に身を包み、儀式では気品のある直垂(ひたたれ)をスマートに着こなす武将達の姿には、その家臣や領民に「自分もいつかはこんな姿で人前に立ってみたい」と思わせるだけの魅力がありました。武将達にとってファッションは、人々の心を掴むために不可欠な要素のひとつだったのです。政治的にもっとも強い権力を持つ人物がファッションリーダーとして、その時々の文化や風俗に大きな影響を及ぼしたことは、現存する絵画や書物、衣類や甲冑(鎧兜)を見れば明らかです。 ここでは、のちの記事で詳しく触れていく戦国時代のファッションについての主だったポイントを書き出しておきます。
「旗指物」(はたさしもの)は、広い意味では戦場で使われる旗全般を指す言葉ですが、現代では「当世具足」(とうせいぐそく)の付属品として個人の背中に取り付ける装飾物を指すのが一般的です。そのバリエーションと言える「母衣」(ほろ)、大将の所在を示す「馬印/馬標」(うまじるし)、軍全体を表章する「軍旗」(ぐんき)なども旗指物に分類されます。数千人、数万人が入り乱れる戦場において、敵か味方かをすぐに判別できるサインとしての実用性と、自身の誇りや戦意を奮い立たせながら個性を示すファッション性を兼ね備えた旗指物は、武将にとっては甲冑(鎧兜)と同じく重要なアイテムだったのです。戦国ファッションに欠かせないアイテム、旗指物を詳しくご紹介します。
戦国武将にとって、一番の晴れ舞台は戦場でした。戦国時代末期以降に主流となった当世具足(とうせいぐそく)と呼ばれる新時代の甲冑(鎧兜)は、堅牢かつ機能的に全身を守ることができ、デザイン性においてもそれまでの甲冑(鎧兜)よりも個人の趣味嗜好が反映された物が多く見られるようになりました。とりわけ兜は個性がよく表れるアイテムで、戦場でも異彩を放っていたに違いない多種多様な変わり兜が登場します。ここで扱う陣羽織(じんばおり)は、いわば戦場で身に着けるアウターです。当世具足の上から羽織る物で、具足羽織(ぐそくばおり)、陣胴服(じんどうぶく)とも呼ばれています。防寒や防雨、防風といった目的だけでなく、自らの存在を戦場でアピールする晴れ着として、当世具足や変わり兜と同じように競って華やかで目立つデザインが取り入れられるようになりました。それでは陣羽織の形状や素材の特徴について触れながら、武将達の人柄やセンスまでを映し出す個性豊かな陣羽織をいくつかご紹介していきましょう。
戦国時代のファッションと言えば、華やかで個性的な甲冑(鎧兜)や兜が思い出されますが、ここでは当時のファッションの基本だった小袖(こそで)と袴(はかま)について見てみましょう。地位や身分を服飾で表現する服制が明確に制定されることがなかった戦国時代において、小袖と袴は身分や年齢にかかわらず、多くの人が身に着ける衣服でした(袴を着用したのは基本的に男性のみ)。そして、ベーシックなアイテムであるがゆえに細かなバリエーションがいくつも生まれ、着こなしにもそれぞれの個性がよく表れたのです。
「戦国時代」や「戦国武将」という言葉から、あなたはどんなファッションを連想しますか? おそらく多くの人にとってそれは、歴史に名を残す武将達の個性が色濃く反映された甲冑(鎧兜)姿ではないでしょうか。そんな甲冑(鎧兜)の成り立ちや変遷をたどりながら、その魅力や込められた思いに迫っていきましょう。 甲冑(鎧兜)とは、頭部を守るための「兜」と胴体を守るための「鎧」などで構成される防具一式を指します。古くは弥生時代から存在したという日本の甲冑(鎧兜)は、時代とともに少しずつ機動力や防御力を向上させながら、同時に武将がそれぞれの個性を競い合うファッションアイテムとしても進化を続けました。特に戦国時代のような下克上の世においては、ひとたび甲冑(鎧兜)を着て出陣すればそれが死装束となる可能性も高かったため、甲冑(鎧兜)は武将達にとって常に本当の意味で「勝負服」だったわけです。
様々な物事をモチーフとする変わり兜のなかでも、「生き物」をモチーフとした変わり兜をご紹介します。ときにあまりにも奇抜すぎて現代人には理解できない物もありますが、そのモチーフに込められた思いを知ることで、戦国時代という過酷な世を生きた武将達の心持ちを推し量ることができるはずです。
頭部を守るための「兜」と胴体を守るための「鎧」を中心に構成される甲冑(鎧兜)。室町時代末期から安土桃山時代にかけて「当世具足」(とうせいぐそく)と呼ばれる甲冑(鎧兜)が主流になると、武将達はそれぞれに多様な「立物」(たてもの:兜に付属する装飾部品)をあしらってカスタマイズした兜を着用するようになりました。鉢(はち:頭部を覆う兜の本体部分)の形にまでこだわって作られたこれらの兜は「変わり兜」と呼ばれ、機能性よりも個性や信条のアピールを重視した、大胆かつ奇抜なデザインの物が現在まで数多く残されています。「戦国ファッション」として強烈なインパクトを残す武将達の変わり兜をいくつかピックアップし、そのデザインを中心にご紹介していきましょう。
「直垂」(ひたたれ)は、いわば戦国時代の武将にとってのフォーマルウェアであり、現代の服装に例えるならビジネススーツやタキシードの位置付けにある物です。平安時代には庶民の普段着だったと言われていますが、時代とともに少しずつ形状を変えながら 「格式」が与えられ、室町時代後期から戦国時代以降は長く武家にとって最高の礼装として重用されました。現代では雅楽や歌舞伎といった伝統芸能の舞台衣装、大相撲の行司服などで知られる他、和装の結婚式における花婿の衣装としても使われ続けています。直垂のルーツや成り立ちを振り返りながら、その仕様や特徴、戦国時代以降の変遷などを見ていきましょう。
フォーマルウェアとしての「直垂」(ひたたれ)は時代とともに高級になり、室町時代後期には地位の高い武将のみが着用できる衣装、という位置付けになりました。それに伴い、中級から下級武士の礼服・日常着として着用されるようになったのが「大紋」(だいもん)と「素襖」(すおう)です。直垂・大紋・素襖の違いや、さらにそこから派生して生まれた「肩衣」(かたぎぬ)の他、「胴服」(どうふく)や「束帯」(そくたい)といった武士の礼服や平服、そしてこの時代に現れた「傾奇者」(かぶきもの)達による独自のファッションにも目を向けてみましょう。 各時代において庶民や貴族、武士などが、どのような特徴の服装を身にまとっていたかをイラストでご覧いただけます。 各時代において庶民や貴族、武士などがまとっていた日本の服飾のイラスト集をご覧いただけます。
「織田信長」(おだのぶなが)は、数多存在する戦国武将のなかで最も良く知られたひとりというだけでなく、ファッションセンスや新しいものへの関心の高さでも良く知られています。織田信長と言えば、白地の小袖の上から萌葱色(もえぎいろ)の肩衣(かたぎぬ)を羽織り、白いラインが2本入った袴をはく長興寺(ちょうこうじ)所蔵の「織田信長像」が有名です。ポルトガルのカトリック宣教師であるルイス・フロイスの著書「日本史」によると、織田信長は「華奢な体躯で髭が少ない」人物だったと伝えられています。織田信長の肖像画は、他にも総見寺(そうけんじ)所蔵と神戸市博物館所蔵の2枚が知られていますが、いずれも面長で端正な顔立ちと薄い口髭、痩せ型という点で共通しており、その意味でもルイス・フロイスによる記述は織田信長の容姿の特徴を正確にとらえたものだと考えて良いでしょう。
「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、火坂雅志(ひさかまさし)による歴史小説を原作とした2009年の大河ドラマ「天地人」(てんちじん)で主人公として取り上げられるまで、それほど有名な戦国武将ではありませんでした。しかし、このドラマで描かれた 、「愛」と「義」に生きた武将という人物像や人気俳優である妻夫木聡さんの好演により、直江兼続はたちまち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑や、同じく大河ドラマで取り上げられた伊達政宗・上杉謙信・武田信玄・前田利家・黒田官兵衛・真田幸村らと並ぶ人気と知名度を獲得。以降「イケメン武将」として描かれることも多くなっている直江兼続ですが、その実像はどうだったのでしょうか。 様々な文献や遺品などから、直江兼続の容姿やファッションセンスを推察してみましょう。
「石田三成」(いしだみつなり)と言えば、そのずば抜けた知力と政治力で知られる戦国武将です。若くして豊臣秀吉の寵愛を受け、みるみるうちに頭角を現した石田三成は、同じ豊臣秀吉の家臣でも武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らとは異なる、官僚タイプの文治派(ぶんちは:豊臣秀吉政権における派閥のひとつ)でした。その出自だけを見ると、いかにも地味でファッションリーダーとは思えないような存在ですが、豊臣秀吉の信頼を得るに至る「三献の茶」(さんけんのちゃ/さんこんのちゃ)の逸話や、豊臣秀吉の死後も忠義を守り、「関ヶ原の戦い」で大敗してもなお再起の機会をうかがっていたという志の高さから、多くの歴史ファンの心を捉え続けています。そんな石田三成の遺物や逸話から、彼の実像に迫ってみましょう。
戦国時代のファッションリーダーと聞いて、多くの人が真っ先に連想する武将のひとりが「伊達政宗」(だてまさむね)ではないでしょうか。死後に広まった「独眼竜」(どくがんりゅう)の異名も手伝ってか、伊達政宗は「かっこ良い戦国武将」の筆頭として織田信長に負けず劣らずの人気を誇っています。これまでに中村錦之助、渡辺謙、高橋英樹、椎名桔平といった俳優が演じ、数多くの映画やドラマが作られてきたことからもその人気ぶりがうかがえるでしょう。史実や伝承から、伊達政宗の人間性やファッションの志向などを見ていきます。
大河ドラマや歴史小説、戦国時代を舞台としたゲームソフトなどで、たびたび主人公クラスとして取り上げられてきた「真田幸村」(さなだゆきむら)。武勇伝の数々と信念を曲げずに華々しく散るまでの生き様はもちろん、「赤備えの甲冑(鎧兜)」や「六文銭の家紋」(ろくもんせんのかもん)など、ファッション的にも人を惹き付ける魅力があり、並み居る戦国武将のなかでもとりわけ高い人気を誇っています。しかし実際の真田幸村の生涯には不明点も多く、現代のイメージ通りの「知略と勇猛さをかね備えたイケメン武将」だったことを裏付ける史料は、実のところほとんど残されていません。数少ない遺物や伝承から、真田幸村の実像に迫ってみましょう。
戦国時代のファッションリーダーとして、5人の武将のファッションセンスや容姿について触れてきましたが、残された史料や遺物から他の武将にはない個性的なファッションセンスや容姿を持っていたと思われる戦国武将達をご紹介していきましょう。
15世紀の半ば、ヨーロッパで「大航海時代」が始まりました。ポルトガル人とスペイン人が中心となり、アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアの国々への航海を繰り返した時代です。日本では、1543年(天文12年)にヨーロッパ文化とのファーストコンタクトがあり、当時の種子島の領主だった「種子島時尭」(たねがしまときたか)が、漂着した中国船に乗っていたポルトガルの商人から2挺の火縄銃を買ったのです。このときの「鉄砲伝来」が、ほどなく日本の戦の形を大きく変えることになります。その6年後の1549年(天文18年)には、カトリック教会の男子修道会、イエズス会に所属する宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えました。ザビエルらイエズス会士はその土地の権力者に会う際、必ずスペインやポルトガルの調度品や鉄砲を献上したと言われており、それらが権力者に喜ばれたことからヨーロッパとの貿易が本格化しました。南蛮とはもともと「南方の野蛮人」を意味する蔑称ですが、珍しい品物の数々は多くの日本人を魅了し、戦国武将達の間に空前の南蛮ブームが到来したのです。南蛮文化を代表する「襦袢」(じゅばん)や「マント」、「ひだ襟」といったファッションアイテムや、西洋の鎧が発展して作られた「南蛮胴」(なんばんどう)などを見ていきましょう。 甲冑(鎧兜)の名前や種類など、歴史的に価値の高い甲冑(鎧兜)を検索することができます。
1549年(天文18年)に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、天皇に謁見して日本でのキリスト教布教の許可を得るため、翌1550年(天文19年)10月に長崎の平戸から山口、堺を経由して京都へ向かいました。ザビエルらはその土地の権力者に会う際、必ずスペインやポルトガルの調度品や鉄砲を献上していたとされ、このときにも精巧な歯車時計、クラヴォ(鍵盤楽器)、老眼鏡、望遠鏡、鏡、鉄砲、カットガラス、金襴緞子(きんらんどんす:金糸や金箔を使用した高価な織物)、織物、ぶどう酒、書籍、絵画、陶器といった13種にのぼる高価な献上品が用意されていました。結局、ザビエルは天皇に謁見することができず、これらを天皇に献上することなく平戸へ戻ってきましたが、それまでの日本では見ることも使われることもなかったこれらの珍しい品々は、襦袢(じゅばん)やマント、ひだ襟、軽衫(かるさん)といった衣類とともに武家や町人に広く受け入れられるようになります。 ここでは南蛮ブームの到来とともに親しまれたファッションアイテムと切り離せない小物やアクセサリーの他、当時の日本人を魅了したに違いないスイーツなども含めてご紹介しましょう。
戦国時代のファッションと言えば、どうしても男性、とりわけ歴史に名を残す戦国武将の華やかで猛々しい甲冑(鎧兜)姿がクローズアップされがちですが、下克上の戦乱の時代を生き抜いたのはもちろん戦国武将だけではありません。いつ戦に巻き込まれて命を落とすとも分からない不安定な世で自分や子どもの命を守り抜くため、女性達も平安時代のような仰々しく動きにくい服装をやめ、シンプルで動きやすい服装を好むようになりました。武家夫人や娘などの富裕層から町人の娘といった庶民まで、戦国時代の女性の間で流行したファッションを見ていきましょう。 縄文から江戸時代までの食文化や文学・絵画、宗教から服装や住宅(家)まで幅広く説明しています。 各時代において庶民や貴族、武士などが、どのような特徴の服装を身にまとっていたかをイラストでご覧いただけます。
戦国時代の武家女子にとっての正装は、小袖に打掛をはおるスタイルでした。平安時代の十二単(じゅうにひとえ)のように、見た目が華やかでも動きにくい服装は次第に避けられるようになり、より機能的でシンプルな物が好まれるようになります。戦国時代は男性と同じように、女性もいつ命を落とすことになっても不思議ではない不安定な時代でしたから、自分の身はできる限り自分で守る必要がありました。そのため、重苦しい十二単など着ている場合ではなかったのです。そんな戦国時代にあって、女性は外出時、どのような格好をしていたのでしょうか? 少し時代をさかのぼって見ていきましょう。 縄文から江戸時代までの食文化や文学・絵画、宗教から服装や住宅(家)まで幅広く説明しています。 各時代において庶民や貴族、武士などが、どのような特徴の服装を身にまとっていたかをイラストでご覧いただけます。
豊臣秀吉が1588年(天正16年)に刀狩(かたながり)を全国に向けて布告したことにより、武士以外の庶民は帯刀が禁じられ、手持ちの日本刀はすべて没収されました。これにより兵農分離が進み、武士・百姓・町人といった身分の差が以前に増して明確なものとなります。一方で、室町時代後期から盛んになった商売事は、戦国時代の貨幣経済の浸透によりさらに活性化していき、城下町は物を売る人やサービスを提供する人と、それを求める人でごった返していました。この頃のファッションは、身分の違いにかかわらず小袖(こそで)を中心としたカジュアルなスタイルへと変わっていった時代でもあります。もちろん生地の質などに身分の差は出ましたが、機能性が重視されたこの時代にあって、小袖は武士にとっても庶民にとっても欠かせないアイテムだったのです。そういったことを踏まえつつ、戦国時代の庶民が普段どんな格好をしていたのか、職業別にご紹介していきましょう。 縄文から江戸時代までの食文化や文学・絵画、宗教から服装や住宅(家)まで幅広く説明しています。 各時代において庶民や貴族、武士などが、どのような特徴の服装を身にまとっていたかをイラストでご覧いただけます。
戦国時代の庶民の服装について、さらに掘り下げてみましょう。飛脚や馬借、振売といったサービス職、刀匠や鷹匠の技術職、華やかながら激しい競争を強いられた遊女のファッションを見てきましたが、ここで取り上げるのは宗教的な仕事に従事した人々のファッションです。「八百万の神」(やおよろずのかみ)という言葉があることからも分かるように、古くから日本では多種多様の神が信じられてきました。古代の伝説的な人物(天照大神[あまてらすおおみかみ]や須佐之男命[すさのおのみこと])、森羅万象の自然物(山や海、岩や樹木)など、信仰の対象は幅広く、宗教者達はそれぞれの信じる神のため、俗世界とは一定の距離を置いたストイックな生活を送っていたのです。 縄文から江戸時代までの食文化や文学・絵画、宗教から服装や住宅(家)まで幅広く説明しています。 各時代において庶民や貴族、武士などが、どのような特徴の服装を身にまとっていたかをイラストでご覧いただけます。
戦国時代のような戦乱の世では豪華に着飾ることは歓迎されず、より機能的で動きやすい物、実用的な物が好まれるようになりました。戦国武将らは自身の「晴れ舞台」である戦場で威容を保つため、競って個性的な鎧や兜を身に付けましたが、庶民は自分を着飾る余裕などなかったのです。そんな庶民のファッションアイテムを中心に、彼らが日常的に身に付けていた物をご紹介していきます。