戦国時代の日常について、幅広い基礎知識をまとめました。私たちは戦国武将のことを、毎日のように戦をしていた人々だと考えがちです。しかし、彼らにも平時には穏やかな日常があり、守るべき家族があり、息抜きとなる娯楽がありました。「戦国時代の日常」では、戦国武将の平時における1日の過ごし方、衣食住、当時の身分構成、恋愛観や結婚観、家庭のあり方、普段の仕事とお金の稼ぎ方などを紹介しながら、歴史の表面からは見えてこない等身大の戦国武将たちの姿に迫ります。
まずは、戦国武将と呼ばれる人々がどのように生まれ、何のために戦い、どのような通過儀礼を経たのか、戦国武将の生涯を知っておきましょう。
戦国武将は、ある日突然にして出現したわけではありません。彼らのルーツは、大きく分けて3種類あります。ひとつめは、室町時代に幕府の任命により各国を統治していた「守護」(しゅご)が徐々に力を付けた例です。室町幕府の権威が低下するとともに、各国の守護は領国内で起こる紛争に介入するようになり、「地頭」(じとう:守護とともに各国の管理のために配置された役職)らを自らの家臣としながら勢力を拡大していきました。甲斐(かい:現在の山梨県)の武田氏や駿河(するが:現在の静岡県中部)の今川氏、豊後(ぶんご:現在の大分県)の大友氏、薩摩(さつま:現在の鹿児島県)の島津氏などがこの例にあたります。
2つめは、各国の「守護代」(しゅごだい)から成り上がった例です。守護代とは守護の代官を指します。彼らは鎌倉や都にいる守護に代わって領国へ赴き、政務を行っていましたが、各国の守護と同じように現地でじわじわと力を付け、勢力を拡大していきました。越前(えちぜん:現在の福井県北部)の朝倉氏、尾張(おわり:現在の愛知県)の織田氏、阿波(あわ:現在の徳島県)の三好氏などがその代表例です。
そして3つめは、各国の「在地領主」(ざいちりょうしゅ:地方に在住する領主)が力を付けた例です。彼らの多くは地頭出身で、先述のように室町幕府の力が衰えるなかで守護の家臣となりました。そこで少しずつ力を蓄え、守護による統治から独立することに成功した者達が在地領主となったのです。在地領主から戦国大名になった例としては、三河(みかわ:現在の愛知県)の松平氏(のちの徳川氏)、安芸(あき:現在の広島県西部)の毛利氏、肥前(ひぜん:現在の佐賀県、長崎県周辺)の龍造寺氏(りゅうぞうじし)、近江(おうみ:現在の滋賀県)の浅井氏(あざいし)などが挙げられます。
また、生まれは百姓の子という貧しい身分でありながら、織田信長に仕えるなかで頭角を現し、のちに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉や、油売りから身を興し、主君・長井長弘(ながいながひろ)を謀殺するなど下克上で美濃(みの:現在の岐阜県)一国の領主に成り上がった斉藤道三(さいとうどうさん)など、先述の3種に当てはまらない異色の出自をもつ戦国武将もいました。
このように様々なルーツを持つ者達が、幕府の弱体化を背景に弱肉強食・下剋上の世の中を勝ち抜き、のし上がるなかで戦国武将になります。そして、各地で大きな力を持つ勢力となっていったのです。
しかし、そもそもなぜ戦国武将達は戦う必要があったのでしょうか。当時の日本では、全国各地の大名と呼ばれる戦国武将達が領国を持ち、現地の統治を行っていたわけですが、すべての戦国大名が野心に燃えて「天下取り」を目指していたわけではありません。
天下統一といった広い視野で日本を見わたしていた戦国武将は織田信長をはじめとする一部の戦国武将のみで、多くの戦国大名は領国の拡大を目的に隣国に戦を仕掛け、勝つことで自国の領土を広げていきました。領土を広げることで人口と穀物の生産量を向上させ、自国を豊かにするのが大きな理由です。四国の統一を目指した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の勢力拡大などは、その最たる例です。
とはいえ、勝てる見込みのない相手に戦いを仕掛けるのは不毛です。自国の領土保全のため、より力の大きな大名に臣従することで自らの領土を確保するという戦略を取った戦国武将もいました。豊臣秀吉に仕えた加賀(かが:現在の石川県南部)の前田利家(まえだとしいえ)らがそれにあたります。
また、戦いでの勝利よりも一族の存続を第一に考えた戦国武将もいました。「関ヶ原の戦い」の際、真田昌幸(さなだまさゆき)と長男・真田信之(さなだのぶゆき)、次男・真田幸村/真田信繁(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)は、豊臣方と徳川方どちらに付くか話し合い、真田昌幸と真田信繁は豊臣方、真田信之は徳川方に付くことを決めました。
一族で袂を分かつことで、どちらが勝っても真田家が存続するようにしたのです。
では、戦国武将はどのように生まれ、死んでいったのでしょうか。戦国武将の生涯には大きく「元服」(げんぷく)、「初陣」(ういじん)、「婚姻」(こんいん)、「家督」(かとく)、「隠居」(いんきょ)という5つの大きな節目があり、死は「辞世」(じせい)と呼ばれていました。
元服は、戦国大名の家に生まれた男子の成人を祝う儀式です。現代の日本では満20歳(2022年4月より18歳)を迎えることで成人になったと見なされますが、戦国時代の成人は必ずしも20歳と決まっていたわけではなく、多くの大名家ではおおよそ13歳から18歳ぐらいの間に元服の儀が執り行われました。そもそも戦国時代の日本では、誕生日を記念日と考える習慣がなく、誕生日が定かでない戦国武将も少なくありません。
元服の「元」は頭の意味を持ち、「頭に烏帽子(えぼし)を服す」というのが言葉の由来です。元服の儀において烏帽子を被せる役は「烏帽子親」(えぼしおや)と呼ばれ、元服を受けた者はその烏帽子親を生涯にわたって敬わなければなりません。元服の儀によって成人になると、それまで名乗ってきた幼名を捨て、「諱」(いみな、実名)が決められます。
元服を終えた男子は、初めての戦に出陣します。これが初陣です。元服後間もなく初陣を飾ることを重視した戦国大名家もありましたが、「何歳までに初陣を飾るべき」という基準があったわけではありません。例えば毛利元就(もうりもとなり)の初陣は20歳と遅めで、その息子である吉川元春(きっかわもとはる)の初陣は11歳と早めでした。また、武田信玄(たけだしんげん)は16歳以下の初陣を禁じたと言われています。
元服と初陣を果たすと、次は婚姻。つまり結婚です。戦国時代の婚姻は多くの場合、政治的・社会的な理由を多分に含んだ親の意向によって決められる政略結婚でした。出会いから一定の交際期間を経てめでたくゴールイン、という現代的な結婚の例はほとんどなく、自分の意思とは関係のないところで決められた相手と添い遂げるのが常だったのです。
婚礼から3日目に白装束から色のついた衣装に着替える「色直し」を経て、婚姻関係を固めるための「三三九度」(さんさんくど)といった儀式が執り行われました。
家督とは、家父長制における家長権を指し、その家の家長権を譲り受けることを「家督を継ぐ」と言います。戦国時代では40歳を迎えると「初老」という扱いになり、名目的には後継者に家督を譲ることになっていました。嫡子(ちゃくし:正室が産んだ長男)が財産権と合わせて相続するのが一般的で、最初の約10年は実権を握り続け、段階的に権力を移行していくのが家督相続の理想とされていたようです。
織田信長の場合、40歳を過ぎた1576年(天正4年)に嫡子の織田信忠(おだのぶただ)に家督を譲り、徐々に権力の移行を進めていました。しかし1582年(天正10年)、「本能寺の変」によって49歳で予期せぬ最期を迎え、織田信忠も敵軍に包囲され自害したことで、のちに実質的な後継者をめぐる様々な争いが生じたのです。
無事に家督を嫡子に譲り、実権の移行もすませた戦国武将は、ここでようやく隠居することになります。隠居後は出家して仏門に入る者もいれば、引き続き主君に仕える者もおり、生き方は様々だったようです。
江戸幕府を開き、戦国の世を統一した徳川家康は、嫡子の徳川秀忠(とくがわひでただ)へ家督を譲り、実権も移行させたのち、1616年(元和2年)に心安らかに75歳で病没しました。戦国武将の家督相続としては理想的な形であり、徳川家と江戸幕府は、その後250年にわたって太平の世を統治することになります。
以上のような形で戦国武将達は徐々にその力を高め、戦国時代を実質的に支配するほどの力を持つに至ります。本コンテンツでは、彼らの日常にスポットをあててご紹介していきます。
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