福島県相馬市で開催される「相馬野馬追」(そうまのまおい)は、1,000年もの歴史がある国指定重要無形民俗文化財の祭りです。毎年7月下旬に3日間にわたって行なわれます。
祭りでは鎧姿に身を固めた500騎余りの騎馬武者が帯刀し旗指物を背負って疾走する姿はとても迫力があり、勇壮で歴史の重みを感じます。そんな歴史のある相馬野馬追について学ぶことでよりお祭りを楽しむことが可能です。
この記事では、相馬野馬追の由来や見どころ、関連する武将などについて詳しくご紹介します。
開催地 | 福島県相馬市、南相馬市鹿島区・ 原町区・小高区 |
開催月 | 7月 |
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関連する 武将・合戦名 |
平 将門(たいらの まさかど) | 観客動員数 | 200,000人 (3日間) |
軍記物の「保元物語」に「将門が下総国相馬郡に都を建設し、自ら平親王と名乗った」という記述があることなどから、相馬氏の始祖は平将門(たいらのまさかど)だと言われています。また、「相家故事秘要集」(あいうちこじひようしゅう)という書物には、「平将門が季節ごとに何回も8ヵ国の兵を集め、下総国葛飾郡(しもうさのくにかつしかぐん:現在の千葉県北部と茨城県西部の領域)の小金ヶ原で馬を放ち、その野馬を敵兵とみなすことで軍事訓練を行なった」という記録があるのです。
このように、1,000年の歴史がある相馬野馬追ではありますが、常に同じ規模で続けられていた訳ではありません。相馬家の史料「奥相秘鑑」(おうそうひかん)によると、940年(天慶3年)に平将門が死去したあとは、子孫が早世したり戦死したりと十分に野馬追ができる状況ではなく、下総国葛飾郡に住む相馬氏の一族である岡田氏がわずかに行なっていたと記されています。
平将門の子孫で六代目の信田重国が下総国相馬郡に移り、改姓し相馬氏を名乗るようになり、その後本家筋である千葉常胤(ちばつねたね)の次子、相馬師常(そうまもろつね)を養子に迎えて相馬氏が再興しました。
そこからは、平将門の例に倣い、小金ヶ原で毎年5月の申(さる)の日に野馬追を行なうようになったと伝わっています。相馬師常は、野馬追を定期的に行なったことが功を奏したためか、鎌倉四天王のひとりとして武名を知られるようになり、その後に陸奥国行方郡(むつのくになめかたぐん:現在の福島県南相馬市)を拝領し、現在の陸奥相馬氏を築くに至ったのです。
相馬野馬追は、毎年7月の最終土・日・月曜日の3日間にわたり開催されます。まずは、祭りの流れを見てみましょう。
3日間にわたる「相馬野馬追」は、1日目の「出陣式」から始まります。
「相馬中村神社」には相馬市の宇多郷(うだごう)勢、「相馬太田神社」には南相馬市原町区の中ノ郷(なかのごう)勢、「相馬小高神社」には南相馬市小高区の小高郷(おだかごう)・双葉郡の標葉郷(しねはごう)勢が、それぞれ武者装束を身にまとって参陣。出陣の儀式が厳かに執り行なわれます。
出陣式を終えた騎馬武者は列を成し、南相馬市原町にある「雲雀ヶ原祭場地」(ひばりがはらさいじょうち)へ向けて出陣。その道中、総大将率いる宇多郷勢は、南相馬市鹿島区にある「北郷陣屋」(きたごうじんや)で「総大将御迎の儀」(そうだいしょうおむかえのぎ)に臨み、北郷勢と合流します。
3軍が雲雀ヶ原祭場地へ集結すると、「宵乗り競馬」と呼ばれる古式競馬が行なわれるのです。
相馬市内では、騎馬武者のお行列が行なわれます。騎馬行列の説明を聞いたり、野馬追のリーフレットを受け取ったりしたい場合には、旧相馬市役所前や荒川町交差点などのギャラリーサービスにお越しください。
2日目は、総勢500騎余が雲雀ヶ原祭場地へ向けて行軍する「お行列」で幕を開けます。
雲雀ヶ原祭場地では、白鉢巻に甲冑(鎧兜)姿の騎馬武者が「古式甲冑競馬」に参加。1周1kmの馬場を10頭で競い、10回開催されます。
続いて行なわれる「神旗争奪戦」(しんきそうだつせん)は、打ち上げられた花火から舞い降りる御神旗を、騎馬武者500騎余が奪い合う行事です。花火は合計20回。騎馬武者が先を争って御神旗に殺到する様子は、戦国時代の合戦図そのもの。御神旗を勝ち取った騎馬武者は、雲雀ヶ原祭場地を見下ろす本陣山の山頂へ駆け上がり、御礼と観客からの拍手を受け取るのです。
一連の行事を終えた各隊は、行列を作って各地へ帰還。これを「帰り馬」と言い、本祭りの締めくくりとなります。
3日目の「野馬懸」(のまかけ)は、相馬小高神社の境内へ追い込んだ裸馬(馬具を着けていない馬)から1頭を選び、奉納する神事です。
白装束に身を包んだ「御小人」(おこびと)と呼ばれる数十人の若者が、御神水によって御印を付けられた馬を素手で捕らえます。この馬を神馬として妙見社へ奉納。相馬地区の平和と安寧(あんねい)、繁栄を祈願します。
野馬懸の神事は絵馬の起源とされ、「相馬野馬追」が国の重要無形民俗文化財に指定されるきっかけとなりました。
相馬野馬追で使われている具足は、新しく作ったり先祖代々受け継いできたりした物もありますが、大部分は江戸時代に実際に使われていた物を全国から収集。そのため、良く観ると趣のあるデザインが施され、時代物だからこそ楽しめる色つやの風合いを味わうことができます。
500騎余りの行列が、ほら貝や陣太鼓の音を合図に本陣雲雀ヶ原祭場地を目指して約3kmを行軍。威風堂々とした総大将をはじめ副大将、軍師などの役付の騎馬が足並みをそろえている様子は豪華絢爛です。相馬野馬追では、雲雀ヶ原祭場地付近の沿道や野馬追通りで武者行列を間近で観られます。ぜひ、鎧武者達が身に着けている具足の意匠や歴史の雰囲気を楽しんでみましょう。
若者は今までかぶっていた兜を脱ぎ、白鉢巻をしめ直します。古式甲冑競馬では、1周1,000mの距離を10頭の駿馬が砂塵を巻き上げながら全力疾走する様は迫力があり、旗指物がはためく音や武具、蹄の音などを五感全体で楽しめます。
ほら貝の号令を合図に花火が打ち上がり、花火の中に仕込まれていた御神旗が空からゆるやかに舞い降ります。神旗争奪戦は、2本の御神旗を取り競う戦いです。数百騎の騎馬武者達が御神旗めがけて走りよる姿はまさに圧巻。日本刀を抜いて構えることはありませんが、合戦さながらの気迫が感じられます。
この勝負を20回行ない、計40本の御神旗を全員で取り合うのです。民謡「相馬流れ山」では、旗指物をたなびかせて御神旗へ走り寄る騎馬の様子を「青い野馬原 一夜のうちに 花が咲いたよ 騎馬の旗」と詠んでいます。
神旗争奪戦で騎馬武者達が身に着けている旗指物は、もともとは戦場で矢が飛んできた場合に身を守る物として使われてきました。その図柄ひとつひとつは非常に魅力的なのです。旗の図柄は、勝利の願いを込めて先祖代々受け継がれてきた図柄で、信仰する神仏や縁起の良い物、武運を高めるような獣など様々な模様が美しく描かれ、ほぼ同じデザインはありません。
各家の誇りがそれぞれの図柄に込められており、江戸時代には2,600種類の旗印があったとされています。色とりどりの旗印の中から、お気に入りの図柄がないか探してみるのも面白いでしょう。
相馬野馬追は長い歴史のなかで少しずつ祭りにかかわる人にとっての位置づけが変化しています。それぞれの変化を追ってご紹介します。
冒頭の由来の通り、野馬追の始まりは軍事訓練でした。野生の闊達な馬を追うことで騎馬隊への対応力を上げるなど、様々な効果が期待されていました。
豊臣秀吉が台頭し、天下統一をもくろむ頃から、武士が許可なく軍事訓練をする行為は禁止されるようになりました。今まで行なわれていた軍事訓練としての野馬追の実施が難しくなってしまったのです。江戸時代に相馬中村藩は6万石の大名になっていましたが、すぐ隣国には62万石を誇る伊達氏の仙台藩があり、万一の場合侵攻されないとは限りません。
そこで、野馬追は「神事である」という建前を前面に押し出して、武術の訓練を行なうための祭りになりました。実際に祭りの3日目に行なう「野馬懸」(のまかけ)では、神のご意向にかなう馬を捕らえ奉納するという神事が行なわれています。なお、この古式に乗っ取った行事が、国の重要無形民俗文化財に指定される重要な要因とされています。
現在の野馬追では、レースを引退した競走馬が多く活躍しています。原町区にある南相馬市馬事公苑などを中心にたくさんの元競走馬が生活しています。本祭り神旗争奪戦では多数の馬が一度に参戦。元競走馬とは言っても、走りのエリートである馬達が疾走する姿は非常に見ごたえがあります。
2011年3月の東日本大震災の際、南相馬市などの一部地区は原発事故の影響で一時的に避難しなければなりませんでした。相馬大田神社は「緊急時避難準備区域」、相馬小高神社は「警戒区域」に指定され、祭りの担い手は散り散りになり、残念ながら逃げ切れなかった馬もいました。
しかし、2011年7月の野馬追は、大幅に規模を縮小して予定通りの日程で実施。さらに、2012年以後はほぼ震災前の規模で実施されています。そうは言っても、震災前と全く同じように復興している訳ではありません。なかには避難先から野馬追に参加している方もいて、野馬追は、相馬地方の平和・繁栄のシンボルとして、今後も地域に愛され続けていくでしょう。
平将門は平安時代の中期、9世紀ごろに生きた人物です。父は平良将で、桓武天皇の子孫にあたります。幼少期は母の生地である下総国で育ち、15歳ごろに平安京へ上京し、藤原忠平に従事。父の平良将が亡くなってからは、平良将が治めていた領土をめぐって伯父の平国香(たいらのくにか)など親族間での争いが勃発し、935年(承平5年)以後は、平国香や兄弟らと合戦を繰り返していました。
1976年に平将門を主人公に創られたNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」において、平将門は血気盛んな熱い男として描かれています。平将門と平国香らとの争いの原因は、失恋や妻を横恋慕(よこれんぼ:他人の配偶者、恋人に横合いから恋をすること)されたなど諸説ありますが、いずれにしてもいさかいが続いて、一向に抗争が収まりません。そのため、源護(みなもとのまもる)は中央政府に調整の判断を仰ぎます。
このとき平将門は、源護よりも早く京に到着し、状況説明をする時間があったため結果的には大赦を得ることになりました。しかし、親族同士の恨みが深まり始めて、平将門の公的な立ち位置も徐々に損なわれていったのです。
938年(天慶元年)に平将門は、武蔵の国司と足立の郡司との争いに介入しました。加えて、翌939年(天慶2年)には脱税や暴力、強奪などを行ない追補令が出ていた常陸国の藤原玄明(ふじわらのはるあき)の引き渡し要求を拒んで争いになり、常陸の国司を討伐してしまいます。国司は、朝廷の役人です。このことが朝廷の怒りを買い、藤原維幾(ふじわらのためのり)が追っ手として任命されました。
藤原玄明の引渡しとあわせて平将門は追われる身となり、これに対応すべく闘ったのが「平将門の乱」です。平将門は追われる身でしたが、この戦に勝利し、常磐国を支配するまでに至りました。相馬野馬追の原型は、この親族や朝廷など敵が多い状況だからこそ生まれた訓練だと言えます。
平将門は結果的に朝廷からの追っ手に討ち取られてしまいますが、それ以上に後世に知られることとなったのは平将門の呪いです。
この他にも、生首にまつわる事故やケガなどの不幸が複数起きています。平将門は、天皇の子孫であり平安時代に生きていたにもかかわらず無位無冠のままであり、公的には生涯低い身分でした。貴族とも武人とも言えない生き方をしてきた恨みが呪いとなり、周囲にたたりを及ぼしたと言われています。
相双地区最大級の祭りである相馬野馬追は1,000年もの歴史がある祭りです。見どころは、各地での馬行列の他、本祭りの日に雲雀ヶ原祭場地で行なわれる甲冑競馬と神旗争奪戦など様々。元競走馬達が歴史上の戦馬に扮して疾走する姿はとても迫力があり、競馬に詳しくなくても楽しめます。
甲冑姿の武者が馬を操るのはなかなか観られない貴重な機会。相馬野馬追には様々な見どころがあり、戦国時代好きや競馬好きはもちろん幅広い世代が楽しめるので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
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